2017年01月30日

君を飾る花を咲かそう

「わたしにも弟がいるって言ったら、うそだね〜 って言われた」
帰宅したら、娘が不服そうに訴えてきました。
僕が抱えている花束を見て、「きれいだね〜 かわいいね〜」と言いながら、花瓶に生ける準備を始めました。
「わたしの花束もあるんだ」と、昨日寄ったダイソーでパパにねだった花束を、そっと添えていました。
そういえば何日か前、「わたしの家族はね〜」と何かの話でそんな話題になって、「パパでしょ、ママでしょ、グランマに弟くん。」さらっと息子の名前を口にしていました。
娘の会話に、時々息子の名前が登場します。
彼女の中に、間違いなく息子が生きていることに胸が熱くなります。

娘を抱きしめるとき、娘の手を握りしめるとき、心の中でいつも息子も一緒に抱きしめ、手を握りしめています。
4歳になった息子を想像するのは難しいけれど、きっと彼ならこんな反応をするんじゃないか、こんなことを言うんじゃないか、そんなことを想像しながら「君もおいで」と呼びかけています。

息子を授かったとき、2人を平等に愛せるのだろうか。Twitter にそんなことを書き込んだら、「大丈夫、愛情は2つに分けるのではなく、2倍になるんだ」と教わりました。
確かに、息子への想いは娘への想いと遜色はなくて、愛情は2倍になっています。

以前に書いたような気もするのですが、庭の芝生の上を、とてとてとて〜 と走る息子を娘が追いかけている。それは息子を授かったときに思い描いた願いで、そしてとうとうかなわなくなった夢でありました。
モグラで荒れた庭をきれいにしよう、と芝生をはがして、代わりの芝の種を購入してみたものの、そこを走る息子がいない、という事実がどうにもやりきれなくて、そのまま放置して1年以上経ちました。
妻は何となく庭の立木と花壇もどきに手を加えましたが、僕がやる気がないためか、やはり何となくそのまま放置。庭には花壇に使ったレンガが散乱し、芝生用の砂・養生土が積まれたままです。

君を飾る花を咲かそう
心を込めて育ててゆくよ
数え切れない やさしい想い出を
包み込むほどの甘い香りに
見送られてゆけるように

君を飾る花を咲かそう
心を込めて育ててゆくよ
旅立つ君へ僕が出来ること
何もないけれど強く生きるよ
優しい君が 躊躇わずに ゆけるように…

もう少し暖かくなったら、久しぶりに庭に手を加えたいと思います。
もし妻が花壇も整えられたら、息子を想って花を植えたいと思います。
いつまでもともに生き続ける。その想いで名付けた息子は、その名前の通り、家族の中で生き続けています。

4歳の誕生日に。
涙と笑顔と切なさと愛しさとともに。
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2016年03月31日

退職の日

なんだかバタバタしている毎日ですが、気がつけば3月は今日で終わり。
午後の院内は、退職や異動で職場を離れる方々が、花束を手に挨拶回りをされていました。
その何となく華やかで、何となく寂しい光景の中に、チームで一緒に仕事をしていた検査科長や2人の看護副局長、夜尿症の子供達がお世話になった泌尿器科部長がいらっしゃいました。この春で無事に定年を迎えられました。

定年。
最近、たまに「残りの年数」を数えることがあります。
当地の医療職公務員は65歳定年ですが、なにせ子供は46歳で授かりましたから、普通に進めば彼女が大学に入ったあたりで定年になります。再雇用が可能なことが多く、それであと5年、70歳まで。
前職では60歳定年でしたから、それでは中学生で定年を迎えてしまいます。転職をした理由の1つは、ここにありました。
それでも、もし彼女が浪人したり、6年制や大学院などに進学して6年以上学生をするのなら、ぎりぎりかちょっと足りない。
親としては、なかなか悩ましいところです。
開業して10年になる先輩が、「私のクリニック、継承したら?」と声をかけてくださっていますが、割と真剣に考えてしまいます(でも、何歳で継承することになるんでしょう?)。今から独力開業は、公務員の身分保障や収入と開業後のそれとを天秤にかけると、ちょっと微妙。

父親とは、大人の事情というヤツで、中学から離れて暮らしていました。
彼は株式会社とは呼びにくい小さな事務所を運営していましたが、いつのまにか会社を離れフリーで仕事をし、さらにいつの間にかその仕事もリタイアしていました。
彼の中に「定年」はあったのか。とうとう最後まで、そんな話はできずに終わりました。
妻の父も自営の公認会計士で、齢70を超えましたが、まだのんびり仕事をされていますので、やはり「定年」にはなっていないような気がします。

好きな仕事があれば、やれる仕事があれば、気力があれば、無理をしない範囲で生涯現役、というのも素敵ですが、宮仕えであればどこかで一度区切りを付ける必要があります。
幸か不幸か僕はそれを身近に見てこなかったのですが、区切りを付ける、というのはどんな心持ちなのでしょうか。
惜しまれる退職ならば光栄なことですが、もしかしたら職場からは新陳代謝を促され、「やっと」とか言われてしまうのかもしれない。次の世代にバトンをうまく渡せていれば良いのですが、それで自分の存在が不要になってしまうと感じるのは、とても受け入れられないかもしれない。
自分のアイデンティティというものを考えると、仕事をして社会とつながっている人には、やはり仕事の上で必要とされる、ということがとても大きいのかもしれません。

いつもと違って彼の帰りを待ち受けて
玄関先でありがとうと言った
長い間ご苦労様とあらたまって手をついた

この「退職の日」を聴くたび、このフレーズで胸が熱くなります。
それが芝居染みた仕草であったとしても、家族にそう感謝をされるのなら、それはとても大きな心の支えになる。
自分の満足のために働いているところはあるにせよ、家族を守るために働いている部分もどこかにあるのなら、それを分かってもらえる幸せは、やはり自分のアイデンティティにつながります。
そして何より、無事にその日を迎えられるという幸せ。

公園のD-51(デゴイチ)は
愛する子供達の
胸の中でいつでも力強く
山道をかけ登っている
白い煙を吐いて力強く
いつまでもいつまでも

同僚達が、父親とこんな話をした、先輩医師としてこんなことを教わった、そんな話を嬉しそうにしている輪の中にいて感じた寂しさは、どこにでもあるお話の1つ。世の中には、坂道を力強く駆け上っていく蒸気機関車を知らない、もっともっと悲しくて寂しい人たちもたくさんいるわけですしね。
でも、みんなそれを乗り越えていかなくてはならないわけです。
そして、そうやって自分が坂道を駆け上って、もしこの先父親として、子供に大きいと感じてもらえる背中を見せられるのなら、それはとても幸せなことです。
そんな日を迎えられるように、足下の日々を精一杯に・・・
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2016年01月22日

旧友再会フォーエバーヤング

「お〜〜 久しぶり。学生の頃と全然変わらないな〜っ!」
出席番号が1つ前の友人が、受付で笑っていました。すっかりごま塩の頭なのに、顔は昔のままの童顔で、なんだか不思議な雰囲気を醸し出している友人の横に、これもまた昔のままの友人達が何人か。みんな変わらないねぇ。
受付横のロビーでは、スーツ姿の友人達が思い思いに談笑していました。
え〜? 同期会なのに、みんなスーツかよ(^^;) と焦ったら、同期会実行委員長の友人が、「GOだってネクタイしてるじゃん」と笑っていました。いや、ネクタイの上はふつーにセーターで、とってもカジュアルなんですが。
ロビーを回って友人達に声をかけている彼が着ていたのは、稲葉篤紀のTシャツ。北海道日本ハムファイターズの選手でした? あ、背番号が出席番号と同じなのか(笑)。

卒業して25年。
みんな50を超えて、そういえば卒業して一度も同期会をしていなかったね、と、細々とつながっていたメーリングリストで話題になって1年。ようやくその日を迎えました。
連絡が付かない友人が何人か。連絡は取れてもどうしてもこられない友人が何人か。残り、何とか会場にたどり着いた同期は、遠くは九州・アメリカから、卒業生の半分以上、60余名にのぼりました。

地元に残っている人たちは時々交流があるようですが、広い北海道に散っていればなかなか会えないようで、さらに内地(本州)に戻った人たちに至っては、たまに学会で会えればそれが話題になるほど。かつて「つるんで遊んだ」思いは変わらなくても、日常の中にどうしてもつながりが薄くなっていました。

「久しぶり!」の応酬の中、最初に始まったのは「同期生による学術集会」。
同期会で学術集会があるのも不思議ですが、これがあると出張扱いになる人がいるそうで、実行委員会の尽力で3題の演題が提出されました。
トップバッターは、北海道東端の病院で皮膚科をしている同期生。最近梅毒だのHIVだの多くてね〜 となかなか無い写真を見せてくれました。
2番手は市内の有名病院脳外科部長。神の手の後継者ですが、脳神経外科医療発展途上国の現状、と言いながら、実際は日本も発展途上国なのではないか、と思わせてくれました。脳梗塞の治療のファーストラインは rt-PA(血栓溶解療法)だけれど、あまり効かないから、決められた時間を待たずにカテーテルによる血栓除去療法を受けた方が良いよ〜 という身につまされる裏話が一同の胸に刺さりました。持つべきものは信頼できる脳外科医、だそうですが、彼の病院はウチからはかなり遠い(涙)。
トリはカリフォルニア大学デイヴィス校で小児科准教授をしている子。学生時代から不思議な雰囲気の子でしたが、学生の頃と全く変わらない姿形に、一同少なからぬ衝撃を受けながら、彼女が通ってきた道の大変さと、今のがんばりに胸を打たれました。小児血液腫瘍科医として、おそらくさらに飛躍していくのだと思わせてくれました。演題開始時のアイスブレイクなど、さすが英語圏でスピーチ慣れしている医者だな、とこれも感心。
どの演題も、専門外の我々にとって面白い内容で、和気藹々と勉強できた学術集会でしたが、気付いてみたらみんなそんなレベルの仕事をこなす年齢になっていたのですね。確かに医者としては、指導する側にいる年齢ですものね。

その後の同期会は、もう盛り上がる盛り上がる。
みんなが各地から持ち寄った日本酒だのワインだのウィスキーだのの山が、瞬く間に減っていきます。ホテルのソムリエが、「このお酒はめったに店頭に出なくて入手困難なんですよ〜」というお酒も何本もあって、酒好きの友人達がそのあたりでたむろっていました。
1人1分の現況報告スピーチは、学術集会が延びて、参加者も多くて、1人50秒になりましたが、それでも終わるまで1時間以上かかる。駆け足の一言コメントに大笑いしながら時間はあっというまに過ぎました。
誰かが言っていましたが、僕ら同期は、「権力的」なものに媚びへつらうことも無く、そういうものを全く相手にすることも無く、自由に「我が道」を信じて突き進んでいる人が多い。それが気風なんだと改めて感じました。

二次会も同じホテルで開かれましたが、最後までみんなよく残って、よく飲んで、よくしゃべりました。
「何かしゃべりたいのか?」と世話役に言われてスピーチに立ちましたが、「同期っていいな〜 普段離れているからなおさらそう思うんだよね〜」という話を熱く(暑く?)語ってきました。
内地から戻ってきた友人達はみんなうなずいてましたから、やはり誰もがそう感じたのだと思います。
三次会まで行きましたが、最後はみんなヘロヘロ。でもよく笑いましたね。

50秒スピーチを聞いて驚いたのは、おそらく僕の子供が一番小さいのだろうと思っていたら、「昨年再婚して、来月子供が生まれる」という同期がいたことでした。う〜む、なかなか。
子供が大学生、というのは僕らの年齢を考えれば当たり前なのですが、結構な数の友人達が、「僕らの後輩になりました」だの、「東北大の医学生してます」だの、後を追ってくれる子供を持っていました。
そんなスピーチを聞きながら、小学生の娘を持つ仲の良い友人が、「GOって、娘を医者にしたいと思う?」と割と真顔で聞いてきました。「僕は娘のなりたいもので良いと思うんだけど・・・ ただ、僕は小児科医という仕事が好きだから、もし娘が医者になりたい、と言ったら、嬉しいと思う」と答えたら、すごく腑に落ちた顔で「そうだよな〜」とうなずいていました。きっと彼もスピーチを聞きながら色々感じるものがあったのでしょう。

本当に、心が暖まる同期会でした。
帰宅したら妻に、「本当に楽しかったのね」と微笑まれましたので、しばらくテンションが高かったのだろうと思います。
後日届いた同期会のDVDを見ながら、しみじみと同級生は良いなぁ、と思いました。
それはもしかしたら、本当に大変な時間を共有した戦友への想いであり、青春時代を過ごした土地への思慕の念であり、そんな日々と若さへの憧憬なのかもしれません。

あゝあの頃よりは少し
あゝ歳もとりましただけど
時には無邪気にはしゃいでみたいと
フォーエバーヤング

また会おうね。
みんなそれまで元気で頑張ろうね。
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2015年01月30日

涙そうそう

お手伝いに行った急病診療所で、次の患者さんを呼び込もうとして、電子カルテの画面に釘付けになりました。
息子の名前と全く同じ名前がそこにありました。読み仮名も同じ。
名字は一字違いで、でも字画は僕らと同じなので、字画で決めた名前なのでしょうか?
呼び込んでちゃんと対応ができるのかしばし逡巡した後、思い切って呼び込みマイクのボタンを押しました。
診察を終えてお父さんに、「息子の名前と同じですね〜 名前は字画を考えたんですか?」と話しかけてみました。
お父さんはとてもにこやかに、どなたかの名前を頂いたのだ、と教えて下さいました。良い名前ですよね、とお気に入りのようでした。
お父さんと患者さんが診察室を出るまで、何とか笑顔でいられました。でもやっぱり1人になったあと、切なくて胸が一杯になりました。

この前の1年は、喪失感の中にいました。悲しみを抱えながら、なんとか彼が存在した意味を見いだそうとあがいていました。
1歳の誕生日が過ぎ、この1年は、ちゃんと生を与えてあげられなかったことを、息子と妻に申し訳ない、と思うようになりました。自分のことばかりだった1年前から、相手のことを思える程度には冷静になれたようです。

娘は、相変わらずしばしば息子の名前を口にします。
きっと彼女も、心待ちにしていたんだなぁ、と感じます。
以前はそんな娘の言葉を聞くたびに心の中で泣いていたのですが、最近は少しだけ穏やかに聞き流せるようになりました。
名付けたときに願った通り、今でも家族の中で、一緒に生き続けている。それは願いであり、贖罪でもあるのですが、それではいつか許されたと思える日は来るのでしょうか。
外来で同い年の子供達を診るたび、あの子も今頃これくらいなんだなぁ、と思い続けることは、きっとこれからも続くのだろうと、それだけは確信しているのですが。

夕方息子のために花束を用意した花屋さんで、すっかり顔なじみの店主さんが、「子供なんてそのうち、花よりもオモチャが良い、とか言い出すんでしょうね」と笑っていました。
そうですね、年齢が上がればきっとそうなんでしょうが、申し訳ないことに僕は、花束以外の何を彼が欲しがるのか、分からないのです。
多分、これからもずっと。
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2015年01月22日

残春

テレビ画面の中で、今の僕よりも若い父が笑っています。
そういえば、僕や妹が幼かった頃、父は良く僕らを遊びに連れて行ってくれました。
ドライブもそうですし、西湖でのキャンプもありました。テントを借りて、そういえばあまり苦労せずに設営していたような気がします。
富士山の五合目へ行ったときは、痔の手術から間もなかったのに、僕らが希望したので馬に乗って六合目まで(?)の乗馬にもつきあってくれましたっけ。降りてから泣いてたのを思い出しました。

何度か引っ越しをしながらも、大切に持ち運んだ家族の8mmフィルム。随分前に妹が業者に頼んでビデオにダビングしてくれましたが、いまやビデオも時代遅れ。
幸いにして綺麗に修正してブルーレイに焼いてくれる業者を見つけ、他社よりも若干高いながらその品質の良さに惹かれてデジタル化をお願いしました。
届いた映像は予想以上に素晴らしく、これで音が一緒にあったらなぁ、と思うのですが、録音付きの8mm登場はもう少し後だったように思います。
再生をして飛び込んでくるのは、若い頃の両親と、幼かった頃の僕ら兄妹。懐かしい、という一言では表現できない感慨深さがありました。
家族の記録、というものは大切なんだなぁ、と改めて感じます。

若さを嗤(わら)わず
老いを恨まず
いつか 来た道
いつか 行く道

「お父様の具合が少し悪いので、今日の透析が終わった後、帰宅するにはどなたかご家族のお迎えが必要です」 桜が散って、春の名残を味わっているある日の朝、電話が鳴りました。
腎癌で片腎摘出後、結局残った腎臓の機能が落ちて、腹膜透析を経て血液透析になった父。
大人の事情、というヤツで普段は離れて暮らしているのですが、具合が悪いと聞くと心配になります。
しかしあいにくと誰もすぐに東京の病院へ行かれませんし、その後しばらく父の自宅で看護することも難しく、入院のお願いをしてみました。最初は満床だと断られていたのですが、結局ICUのベッドを空けてもらって入院となりました。
夜、消灯時間を過ぎて、とるものとりあえず母と2人、身の回りの品を持って病院を訪ねたのですが、すでに消灯時間を過ぎているから、と面会はかないませんでした。「落ち着いていますよ」という看護師の言葉に、それではまた週末にでも出直すことにしよう、と荷物だけ預けて帰ったのですが、今思えばそのとき、「顔を見るだけでも良いから」とお願いしてみれば良かった。

翌日の午前中に、主治医の先生から電話がありました。
「昨日赤羽の駅前で転んだようです。顔をぶつけています。お腹を痛がっていて、下痢がひどいのですが、詳しく検査をしてみたら、どうやら壊死性腸炎のようです・・・」 それなのに自宅へ帰そうとしたのか、と悲しくなりましたが、どうやら分かったのは入院した後の様子。きっと「帰さなくって良かった」と思っているだろうなぁ、と主治医の心情が良く分かります。
「倒れたのが原因なのか、具合が悪くなっていたから倒れたのかは、今となっては良く分かりません。ただ、かなりの広範囲がやられています・・・」 すると手術の適応は? 「ご高齢ですし、かなり広範囲なので、手術は無理だと考えています」 では、抗血栓療法は? 「すでに壊死が広がっているとすれば、それもあまり効果的では無いと思われます・・・」 つまり打つ手が無いわけですね。壊死性腸炎で打つ手がないとなると・・・ 「状況はかなり厳しいです。ここ数日、と思われます」
思わず父の顔が浮かびました。
これでも医者の末席に名を連ねていますから、現状がどのような状況なのかは良く分かります。
急ぎ妹を呼ぶことにして電話を切りました。

ハワイの妹は、さすがに急の連絡で絶句していました。今からでは明朝の飛行機の手配は難しい、と悩んでいました。それでも急いで仕事の調整をして、家族と相談して、できる限り早く飛ぶ、とのこと。でも状況は厳しいから、もしかしたら間に合わないかもしれないよ、と伝えましたので、覚悟はしたようです。

できる限り早く病院へ行こう、と午後の外来を片付けていると、再び電話が入りました。
「状況はかなり厳しいです。これから来られますか?」 予約の患者さん達がありますので、夕方にならないと難しいです。 「できる限り早くお願いいたします・・・」 危篤です。
とるものとりあえず残りの患者さんを片付けて(まさに申し訳なくも、片付ける、という心情でした)、自宅に戻ったら母がいない。
妻と2人手分けして探し、ようやく近所でのんびりしていた母を収容して、病院に向かいました。
自宅を出てまもなく、電話が入りました。電話が鳴った瞬間に、意味を理解します。
「まだ病院に着かないでしょうか? あとどの位かかりますか? 心拍が30まで落ちてきました・・・」
あと1時間半はかかります。心拍30ですか。間に合わないですね。間に合わなければ、待たなくて結構です・・・
危篤の報に家族が駆けつけるとき、希望があれば心臓マッサージをしながら到着を待つことがあります。
そうして頂けば、少なくとも死に目には間に合う。でも実際にはもうとっくに亡くなっている患者さんの死亡確認を延ばしているだけ、というのが真実です。
家族としては死に目に間に合いたい。でももう意識はないし、実際には亡くなっている父を、あと1時間半も心臓マッサージしてくれ、というのがいかに理不尽な希望なのか、これも医者ですから良く分かっています。
「待たなくて結構です」つらい言葉だなぁ、と思いました。

やっとの想いで病院にたどり着き、父に会ったとき、まだほんのり温かかったのが救いでした。
不思議と悲しい、という感情は無くて、むしろ全ての感情が消えたような、変に冷静な自分がいました。
身綺麗にしてもらうのを待つ間に、妹に電話をしました。現地で夜中にかかった電話ですから、妹も覚悟をして電話に出たようです。1日後の早朝便で発てる、と伝えてきました。

いのちを恥じず
いのちに怯えず
永い永い坂を
黙して独り行く

順番が望ましいのですから、いつか経験する親の葬儀です。
バタバタしながら、それでも葬儀社が商売柄とても親身で、暖かな家族葬ができました。
火葬後のお骨拾いで、のど仏が立派だ、といとこ達が驚いていました。
晩年は病気で苦労したけれど、足の骨は随分太くて立派ねぇ、と伯母や母が驚いていました。
静かな悲しみはありましたが、穏やかに時間が過ぎたように思います。

未来を憂えず
過去に惑わず
いつか 夢見た
いつか 届く場所へ

季節に咲く花は
時を疑わない
与えられしいのち
楽しきもまたよろし

父を亡くして半年が過ぎた頃、デジタル化された家族の8mmフィルムを見て、ようやく悲しみが襲ってきました。
あぁ、僕はやっぱり、父のことが大好きだったんだなぁ、と画面の向こうで笑う父を見て、しみじみ実感しました。諍いが無かったとは言えず、腹を立てたり恨んだりもしましたが、でもやはり、父が好きだったんだなぁ、と分かりました。
多分彼は間違い無く、少しだけ不器用でしたが、子供達を愛していた。
僕ら兄妹は、愛されて育ったんだ、と思い出しました。
ようやく一緒に酒が飲めるようになった、と行きつけのスナックで、信じられないくらい、恥ずかしいくらい喜んでいた父。会うたびに自分のことよりも僕のことばかりを心配していた父。子供の頃、日曜日の朝、両親の部屋に飛び込み父の布団に潜り込んだときの、缶ピースのにおいと布団のぬくもり。怒られたこと、笑ったこと、そうかこんなこともあった、と良くまぁ昔のことを覚えているな、と自分でも驚くくらい、父との思い出がよみがえりました。

多分、自分が父になって、娘に無条件の愛を注ぎ込んでいるから気づいた父の愛。
少し気づくのが遅かったなぁ、とそれが申し訳なく思います。

心に咲く花は
季節を惜しまない
与えられしいのち
かなしきもまたよろし

51歳の誕生日に。娘にもらった沢山の幸せを感じながら。
父さん、どうもありがとう。
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2014年03月11日

ダイエットの歌

先日のバンコクで、バスルームにある体重計に乗ったら、あろうことか体重が 70Kg になっていました。身長が 164cm ですから、立派なメタボ体型です。このところ、ご飯美味しかったもんなぁ・・・

転職してから、病院内の移動と言えば、1階医局と2階外来の往復だけ。しかもせいぜい2〜3往復。以前は4階医局から3階外来へ、2階 NICU へ、と良く移動していました。
運動不足は分かってます。通勤往復の車の中で、スクイーズで腹筋動かしたりしてますが、たかがしれています。

職員健診で、中性脂肪と尿酸とコレステロールが引っかかりました。
Nature Made の DHA(120mg) + EPA(180mg) を飲み続けて,見事に中性脂肪は改善したのですが、このままで良いわけがありません。
何気なくめくったアルクの雑誌に載っていたのは、九味半夏湯加減方(扁鵲=へんせき)。3ヶ月くらい飲めば、内臓脂肪をよく落としてくれるそうです。
生薬11種類とのことで、値段は結構高いのですが、思い切って3ヶ月試してみることにしました。

そんな折、友人の先輩小児科医の Facebook にあった「糖質制限」の4文字。ちょっと興味を持ちましたら、先輩つながりのさらに先輩小児科医から、「糖質セイゲニスト」へのお誘いを頂戴しました。

明太子あればご飯3膳いけます。納豆掛けご飯も好きです。
パンはも〜〜っと好きです。土日の朝は,いつもパンです。パスタも大好き。ピザも忘れちゃいけないよね。
病院内のセブンイレブンには、看護師さん相手か、美味しそうなシュークリームにエクレアにチョコレート入りクロワッサンなどなど。疲れた午後には止められないんですよね・・・

という、炭水化物どっぷりな生活だったことを思い知らされ、かといっていきなりスーパー糖質制限なんていう、一切炭水化物取らない、という生活にもなれず。
先輩諸氏の誘いをのらりくらりとかわしてはいたのですが、状況が変わるわけでも無し。ゆるい糖質制限をしてみようかな、と思い立ったのがこの間の誕生日でした。

まずは楽天市場から「糖質制限クロワッサン」を購入。
これが思いの外美味しくて、昼食に食べていました。
さらに他社の糖質制限パンを手に入れ、それまでのセブンイレブンお弁当生活から、糖質制限パン+サラダ+おかず1品(またはスープ1品)に替えてみました。以前より野菜を取るようになり、それはそれで良いのですが、難点は院内セブンイレブンには、お弁当以外の種類が少ないことです。飽きたら出勤前に、違うセブンイレブンでおかずを買うかな〜

そうこうしていたら、妻が「なに、その糖質制限って?」と興味を示してくれました。
彼女はダイエット不要の体型を維持していますが、それではと夕食のおかずをがんばって、糖質制限食にしてくれました。ゆるい糖質制限ですので、夕食にはお茶碗に1口のご飯を頂きます。
もともと朝食は自家製カスピ海ヨーグルトなので、これである程度の糖質制限はできそうです。

某所でたまったポイントを使って、アマゾンでパナソニックの「ホームベーカリー 1斤タイプ SD-BMS106-NW」を購入しました。「糖質オフのパスタ パン ピザ」という本を参考に、自分でも糖質制限パンを作ろうかな、と考えています。
妻は電子レンジを使って、おから+卵+ベーキングパウダー+人工甘味料で、おから蒸しパンを作ってくれています。アーモンドやクルミを砕いて混ぜたり、ココアパウダー入れたものなど、これが予想外にとても美味しくて(愛情詰まってるから? 笑)、またお腹にずっしりきます。最近はこのおから蒸しパンとセブンイレブンのおかずでお昼になっています。

で、肝心な体重ですが。
まじめに糖質制限を始めて約3週間。体重は 5Kg 減りました。妻が思わず「体の具合、悪いんじゃないの?」と焦ったくらいです。
糖質制限につきあっているわけではありませんが、妻の体重もすこ〜し減ったようです。

これなら、次の職員健診は異常値出ないかな? と淡い期待を抱いているのですが・・・


ちなみに、本日のタイトルですが、本当にこんな歌があるんです。
福岡で活躍されている楓(ふぅ) さんの「ダイエットの歌」。Youtube はこちらです。

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2014年02月06日

ふるさと

大学5年の夏休み、滞在していたホームステイ先のホストファミリーが、「何か日本の歌を歌って」とリクエストしてきました。
日本の歌・・・ どんなものがあるでしょう。庭の芝生とプールを眺めながら、「さだまさし歌っても分からないだろうし、今流行っている歌は良く知らないし、多分今更『スキヤキ』とかじゃないだろうし・・・」
逡巡したあげく、口を突いて出たのは、なぜかこの歌でした。

 兎追ひし彼の山
 小鮒釣りし彼の川
 夢は今も巡りて
 忘れ難き故郷

ホームシックにかかっていたわけではないのですが、異国の地にいて「日本」を想ったとき、それを一番的確に表現するのが、この歌でした。

 如何にいます父母
 恙無しや友がき
 雨に風につけても
 思ひ出づる故郷

「恙無し(つつがなし)」とはツツガムシに感染していない、と言う意味で、そこから病なく元気にいますか、という意味に転じたのだ、と習ったのは寄生虫学の授業でした。

 志を果たして
 いつの日にか歸らん
 山はき故郷
 水はCき故郷

仰げば尊し」で書きましたが、身を立て、名をあげ、夢をかなえる、というのは、人として生まれたならば一度は考えることなのかもしれません。故郷に錦を飾る。ふるさとはもちろんくじけた人も迎え入れてくれるのでしょうが、できれば顔を上げて帰りたい場所なのかもしれません。

歌い終わって、つたない英語で歌詞を訳して伝えたら、なんだかとても感動してくれました。
移民の国アメリカでは、自分のルーツやホームタウンにこだわる人が少なからずいますが、ホストファミリーはスペイン系アメリカ人のパパと、割と典型的なWASP系(あ、でもモルモンでしたっけ)のママでしたので、「ふるさと」というものへの想いは深かったようです。

そういえば、「世界のこんなところに日本人がっ!」的なテレビ番組で、しばしば彼の地に住む日本人が口ずさむのも、この歌でした。
「ふるさと」はやはり誰にとっても心に刻み込まれた、大切な土地なのでしょうか。

「住めば都」なわけですが、往々にして医者は、出身地とは異なる土地に根を下ろすことがあります。
まず大学が「とりあえず入れるところ(入れてくれるところ)」という基準で選ばれていたりします。
かつては卒業したら、通常はそのまま卒業大学に残りました。まれにふるさとに帰ることを画策しますが、最近の研修医制度は「ガラガラポン」とかき回されますから、必ずしも卒業大学やふるさとに戻れるわけでもありません。
大学に入局してみたら、地方の病院に飛ばされることもあります。転職して土地を変わることもあります。
いつかどこかで根付くのでしょうが、それは本来のふるさとではないことも多いですし、そこが「家族」にとっての「ふるさと」になっていくわけでもあります。

僕の場合は、学業や家族の都合もあって、横浜から平塚・旭川・千葉県某所と、長く住んだ土地が4つ。
「ふるさと」は? と尋ねられたら「横浜」と答えますが、今でも旭川に「帰る」と言ってしまいます。
平塚がふるさとに準ずる認識はありませんが、現在住んでいるこの地はどうなのでしょう。これからふるさとになり得るのか。娘にとってはこの地がふるさとであることは間違いが無いのですが。

「ふるさと納税」で、各地から色々な特産品をいただき、それを夕食で頂戴しながら、それぞれの土地に思いを巡らせるこの頃です。
きっと「ふるさと」をあとにしたひとが、「ふるさと」を想い寄付(ふるさと納税)をして、頂く特産品に胸を熱くする場面があるんだろうなぁ。そんなことを考えます。

「ふるさと納税」の特産品、下記のブログを参考にしながら、今年も続けてみたいと思います。

ふるさと納税でいただいた特産品
平成25年度分が載っています。タグで特産品や地域の検索ができて便利。

かんぴんたんずのブログ(ふるさと納税特産品)
ものすごく沢山の特産品を手に入れられていて、超高額給与所得者かと思ったら、「上限を考えず予算を決めて趣味でふるさと納税」と書かれていました。

ありがとう♪ ふるさと納税お礼の品
平成25年度分が載っています。カテゴリー別で特産品の検索ができて便利。
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2014年01月30日

愛し君へ

学生時代、大学祭で三浦綾子さんに講演をして頂きました。
「今、生をみつめて」というタイトルは、僕が付けました。
「生きる」と言うことを中心に色々なお話がありましたが、その中に、空の上で生まれる順番待ちをしている子供たちの話がありました。
どんな家に生まれ、どんな人生を送るのか、子供達が話しています。1人の子供が、生まれてすぐに死んじゃうんだ、と言うのを聞いた他の子達は、つまらない人生だねぇ、と冷笑を浴びせます。けれどその子供は、そのわずかな人生に意味があるんだ、と言って生まれていくのでした。

わずかな人生に意味がある。
若かった自分には分かりきれなかったその言葉を、この1年かみしめて暮らしました。
後悔と申し訳なさと寂しさと悲しみと。たまらない喪失感でした。
いつまでも一緒に、胸の中で生き続けるから、と付けた名前は、漢字が示すその意味と、何より音の響きが好きで、我ながら良い名前を付けたと自画自賛しています。
その名付け親の期待通り家族の中に生き続けている彼は、しばしば娘のおしゃべりに登場します。曰く、彼が笑った。曰く、彼と一緒に遊んだ。それは両親と同様、弟を心待ちにしていた娘の、願望の表れなのかもしれません。あるいは小さな子の持つ不思議な能力で、本当に彼が笑っているのが見えるのかもしれません。
娘のおしゃべりに笑って相づちを打ちながら、胸の中で静かに涙を流す、そんな繰り返しです。

職業柄日常的に子供達に接しますから、中には帝切予定日に生まれた子供なんていうのに出会うこともあります。うちの子も生まれていたらこんななんだろうな、と一瞬でも思うと、とても落ち込みます。顔で笑って心で泣いて、というのはこういうことなんだな、と思い知らされました。

愛し君よ 愛し君よ
何処にいるの
今すぐ逢いに来て欲しい
例えばそれが幻でも
いいから

病棟の薄暗い処置室で、息子を抱き上げた時のことを、よく思い出します。
そっと抱き上げて、会いたかったよ、と声をかけて、頬とおでこにキスをした。その時の息子の顔を思い出します。
彼の笑顔を見たいなぁ、と胸が熱くなることがあります。
よちよちと歩く後ろを娘が追いかける。そんな光景が目に浮かぶことがあります。
幻でもいいから逢いたい。それは大切な人をなくした人なら、きっと誰もが一度は思うことでしょう。

そんな経験をした。
慟哭、という言葉の意味を実感した。
それはとても悲しいことでしたが、ただ1つ、小児科医として、子供を亡くした親の気持ちを知った。その経験は、彼が僕にくれた大切な贈り物の1つであることは間違いがありません。
わずかな人生であっても、周りの人たちに何かを残していくのなら、確かにそれは意味のある人生なのです。

息子の1歳の誕生日に。
沢山の愛とともに。
深い感謝をこめて。
でも、やっぱり逢いたいなぁ。
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2013年12月25日

神の御子は今宵しも

小学校のクリスマス礼拝は、5年生が聖歌隊を担当します。
明かりが消された暗いグレセット講堂を、キャンドル型のライトを手に、2列に分かれて賛美歌を歌いながら入場するのですが、6年間でたった1回のこの聖歌隊の担当は、それなりに楽しみなものでした。
何度も何度も練習を重ね、いざ本番、なのですが、僕らの時は直前にインフルエンザの大流行で学校閉鎖。クリスマス礼拝も中止となったのでした。
がっかりする僕らを気の毒に思ったのか、2学期の終業式が急遽クリスマス礼拝を兼ねたのですが、保護者には何の連絡も無かったため、両親達は参加できず。大ブーイングが起きたようです。
親たちの参観はなかったものの、練習した賛美歌を歌い、聖歌隊の責を果たせたことは喜びでした。賛美歌第二編112番「来たり給え、我らの主よ」で入場を始め、確かその次が賛美歌111番「神の御子は今宵しも」でした。今でも歌えるということは、あの頃それだけ練習を重ねた、ということなのでしょう。
僕らが学んだ校舎も今はなく、あのグレセット講堂もなくなった(新しい礼拝堂になった?)ようですが、今でもクリスマス礼拝は続いていて、やはり5年生が担当しているようです。きっと今年も、聖歌隊のキャロルから始まり、おごそかに礼拝が行われたのでしょう。

バプテスト教会系の学校でしたから、個人の信仰の自由が尊重されていましたし、結局僕は今に至るまで洗礼を受けていませんが、幼稚園(は系列の別学校でしたが)と小学校をキリスト教系の学校で過ごした影響は大きそうです。
考え方、生き方に、もしかしたらひっそりとキリスト教の教えが息づいているんじゃないか、と感じることがあります。きっとこうした「刷り込み」が、キリスト教系の初等教育が果たす一つの目的なのかもしれません。

洗礼は受けていないものの教会の敷居は高くなくて、大学時代は三浦綾子さんに誘われて、よく旭川六条教会の日曜礼拝に参加しました。何度か出席したクリスマス礼拝は、とても印象深い礼拝でした。
医者になってからも、たまに近くのバプテスト教会に行きましたが、一緒に働いて仲良くなった内科の同僚が子供の頃通ったことのある教会だったようです。
現在の地に移り住んでからは、時折教会の前を通るたびに、掲示されている「今日の言葉 聖書の一節」に気を止めることはあるものの、礼拝に参加すること無く10年以上が過ぎました。
たまたま Facebook で、前述の友人がお父様と礼拝に参加した、と書き込んだのを見て、またクリスマスには "O Holy Night" が一番だ、という書き込みを見て、この歌を思い出しました。
"O Come All Ye Faithful" はケルティックウーマンが一番好きですが、Enya の神秘的な歌声も心に響きます("Adeste Fideles" はラテン語で歌っているのでしょうか)。

残念ながら(?)千葉県にキリスト教系の小学校はありませんので、娘の情操教育にキリスト教の教えが入ることは少なそうです。
それでも、せめて「クリスマス」の意味ぐらい知っておくのが良いだろう、と思います。小学校に入ったら、教会のこどもクリスマス礼拝に参加しようか、と考えてみるのでした。
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2013年10月27日

人生の贈り物 −他に望むものはない−

「O先生、亡くなったんだって」
昨夜、久しぶりにお会いした先輩女医さんと札幌の割烹で海の幸を堪能していたとき、彼女がぼそっとつぶやきました。
「私も最近、歳取ったなぁ、と思うのよ。何歳まで働こうか、ちょっと考える。」

先日の学会で、仲の良い東京の先生と懇親会でお会いしたときには、「S先生亡くなったんだって? なんでか知ってる?」と尋ねられました。
これも初耳でしたし、何よりS先生には兄弟同様に育った従弟が幼少期大変お世話になりましたから、とても衝撃を受けました。
松山千春の(ご家族の?)元主治医で、学会懇親会後の二次会では、とても素敵な声で千春の歌を歌われるのが大好きでした。

ふと気付くと、いつの間にか年賀状の送付リストからそぅっと消えている方々が少なからずいらっしゃいます。
それは昔々、旅先で出逢った方々だったり、大学浪人時代にお世話になった方々だったり、学生時代とてもかわいがって頂いた方々だったり、医者になって指導頂いた先輩達だったりします。
いずれも僕よりも年配であれば、それは確かにいつかは目の前から消える。それが世の中の順番であり理なのですが、それでも知己を亡くし、年賀状送付リストのチェックをそっと外すとき、静かな寂しさを感じます。名前・住所まで削除することはできず、そうして年賀状ソフト「筆まめ」の一覧には、年賀状を送らない方の名前が少しずつたまっていきます。

昔パソコン通信をしていた頃、日本全国の同じ興味を持つ人たちとの交流が、それは楽しいものでした。
異文化交流・海外旅行が好きで集まった人たちは、異なる意見を持ちながらも、その違いを語り合い受け入れあっていました。、
日本中に友達がいるんだ、というのは、当時の密かな自慢でした。
人と出会うこと。色々な考えや生き方をのぞくことができること。これはきっと自分の人生を豊かにしてくれるのだと信じてきました。

もしももう一度だけ若さを くれると言われても
おそらく私は そっと断るだろう
若き日のときめきや迷いをもう一度
繰り返すなんてそれはもう望むものではない

そうしてこれまで生きてきて、沢山の人たちと出会い、つながり、別れ、今に至るわけです。
パソコン通信は、いつしかインターネットに変わり、フォーラムは mixi や Facebook のSNSに置き換わっていきましたが、おそらく人との交わりという基本的な点は、僕の中では変わっていないように思います。
あの時ああしていたら、とか、こうだったら、と思うことが無いことは無いのですが、それでは今の自分を後悔しているか、と尋ねられたら、きっときっぱりと否定するでしょう。
人はおそらく、迷い悩みながら前に進むのですが、悔やむことがあっても「今」を否定したくはない。そう思います。

並んで座って 沈む夕日を一緒に眺めてくれる
友がいれば 他になにも望むものはない

その「友」は、本当に「友」かもしれませんし、気付いたら長い時間をともに過ごした「家族」なのかもしれません。
いずれにせよ、寄り添いぬくもりを感じられる人が一人でも得られたのなら、きっと素敵な人生だったのだろうと思います。

僕にとって人生最大の贈り物である娘は、3歳8ヶ月になりました。
今朝、幼稚園のお受験に合格した、と出張中の僕に妻から連絡が入りました。
彼女の人生はまだまだ始まったばかりですが、この先に沢山の素敵な出逢いがあることを祈ります。
どうか豊かな人生でありますように。
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2013年06月07日

夢見る(?)少年だった頃、ノストラダムスの大予言が当たるならば、自分の一生はわずか35年なのだ、と悲しく思ったことがあります。
「恐怖の大王」がやってくるとき、きっと僕は結婚していて子供がいて、でもその子供をどうやっても守れないのだろうか、と、ませた子供(ガキ)は真剣に悲しんだものでした。
けれど、いよいよその年が近づいても僕は独身で、守るべき子供には出逢えていませんでした。
めっきりと夢を見なくなってしまった訳知り顔の大人は、それでも7月を迎え、もしかしたら本当に何か空から降ってくるんだろうか、とほんの少し不安に思ったのを覚えています。
結局何事も無く過ぎたのは周知の通りな訳ですが(笑)、僕が守るべき子供に出逢うには、さらに10年の時間が必要になるとは思わなかった(苦笑)。

夢見る(!)青年だった頃、めぐり逢う人はめぐり逢うべくして出逢うのだろうか、と真剣に考えていました。
いつめぐり逢うのだろうか、どこにいるのだろうか。出逢った瞬間に分かるのだろうか。それとも気付かないうちに隣にいるのだろうか。運命の人なのか、成り行きなのか。
色々な出逢いを想像しては、その日を楽しみにしていました。
けれど、出逢いの全ては決して結実することはなく、まさか何ら成果を得ないままに青年期が終わるとは思わなかった(苦笑)。

夢を忘れがちになった壮年になって、夢は努力しなければ手に入らないのだ、という最も基本的で重要な事実に、ようやく向き合うことができました。
このままじゃいけない、想像するばかりでは無く行動をしよう、とようやく重い腰をあげたわけですが、それでもまだどこか夢見がちで現実離れしている日々。
長年の習性は、そう簡単には変えられない、ということなのでしょう。
思い至っても、真剣に婚活を始めるまでには、微妙に時間が必要でしたし、その婚活でさえ、初めのうちは理想と現実との溝を埋めることができず、空回りしていました。

出逢いは本当にわずかな偶然の重なりの上。
以前書いたように、その出逢いはもしかしたらすれ違って終わるものだったのかもしれません。
それでも出逢った、という不思議は、運命の巡り合わせ(=仕合わせ)と呼ぶものなのでしょうか?

縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない

縁があって出逢った2人は、それぞれの家族を繋ぎ、新しい家族を作り、お互いの人生を重ね合いながら自分たちなりの布を織り上げていくことになるのですが、もしその縁が誰かの癒やしになるのならしあわせなことです。

その布はきっと色々な色の糸で織られていて、結果として賑やかだったりうるさかったりこれも色々なのかもしれませんが、もし触りたくなる柔らかさを保てるのなら、きっと周囲の邪魔にはならないでしょうし、触りに来てくれるひともいるかもしれません。

織り続ける布の色の中には、喜びの色も、悲しみの色も混ざっていくのでしょうが、もし縦の糸も横の糸も途切れること無く織りなしていけるのならば、きっといつか素敵な布に仕上がるに違いない。そんな風に思います。

この1年は、まさに喜びと深い悲しみとに揺れた1年でした。
一緒に泣けるということは、悲しいことだけれど幸せなことだと知りました。
きっとお互いに1人きりでも泣いていたのでしょうけれど、人のぬくもりと支え合い分かち合うことの暖かさを知りました。
大きな癒やしになったのは、子供の無邪気な笑顔と寝顔でした。
その笑顔を守るために、何ができるのか。自問する日々です。

縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます

出逢わなければ経験しなかった悲しみは、いつの日か、出逢ったから経験した喜びの中に埋もれていくことでしょう。
僕らにとっての仕合わせが、幸せにつながりますように。
4回目の結婚記念日に。
いつもそばにいてくれて、どうもありがとう。


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2013年02月19日

しゃぼん玉

しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた

娘が生まれたあと、なかなか次の子供ができず、どうしたものかと思案していた日々。
ハワイの妹が、「私が飲んだ不妊対策用の漢方、試した?」と何気なく語ってくれて、そういえばそんなものがあったなぁ、と早速試してみたのでした。
飲み始めたら、本当にすぐにご懐妊。
なんだか信じられなくて、でも嬉しかったのを覚えています。

男の子が欲しいなぁ、と、夫婦で「男女産み分けの本」などを読みあさり、排卵(妊娠では無くて)検査薬まで準備して望んだ妊娠。
念のために行った羊水検査の結果は「46XY」。男の子でした。
一姫 二太郎、とても素敵です。
これで娘にかかる負担を少しは減らせるかと、心から嬉しく思いました。

週数を重ね、少しずつ出っ張ってくるお腹を触り、今度は骨盤位じゃないのかなぁ、と僕は笑っていました。
娘の保育園送り迎えの車内で流れる英語の童謡が好きなようで、音楽が流れるといつもお腹を蹴っている、と妻が笑っていました。

24週を過ぎて12月も末になってきた頃から、少し妻の血圧が高くなってきました。
40代前半の高齢ですから、妊娠高血圧症のリスクは十分あるわけですが、相変わらずお腹の赤ちゃんは元気で、体重増加もまずまずだったようです。
28週過ぎれば小児科的には対応できるけれど、32週くらいまでもってくれたら何とかなるんだけどなぁ。34週だったらかなり楽だなぁ。36週は「ただチビちゃん(ただチビなだけ)」だよ。僕の小児科医としては何気ない言葉を、妻はどんな風に感じて受け止めていたのでしょうか。

年が明けて、連休で里帰りをしていた妻から、「血圧が高い」と連絡が入りました。「150/100 くらい。」
当直の産科医に相談してみたら、「そのくらいならまだ心配ない」との回答で、それでも血圧は高めが続くので、再度漢方薬局に相談し、当帰芍薬散を飲み始めたのでした。
飲み始めたらすぐに、血圧が10程度減少。漢方にしては効果発現が早いなぁ、とは思ったのですが、少なくとも血圧が下がるのは悪いことではないので、ちょっと安心したのでした。


しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた
うまれてすぐに こわれて消えた

ハワイの税金申告のため、どうしても一度ホノルルへ飛ぶしか無く、日程調整をしていました。
妻の血圧も少し下がったので、これなら良いか、と1月24日夜の便でホノルルへ飛びました。
着いてみたらホノルルは雨。何度となくホノルルに来ましたが、傘が必要なほどの雨は初めてでした。
ともあれ着いてすぐ、バタバタと走り回って、どうやら日本領事館でパスポートの認証を受ければ良いらしい、と分かったのは現地の午後。残りは翌日片付けることになりました。

妹の家に戻ってのんびりしていたら、妻から携帯に電話が入りました。出てみると雑音がひどくて、結局そのまま切れてしまいました。時刻は日本の昼前。丁度妊婦検診が終わった頃です。何となく胸騒ぎを覚えてすぐに折り返すと、電話機の向こうで妻が「赤ちゃんの心拍が無いの」と震える声で報告してきました。
妊娠31週4日。3月11日には帝王切開の予約が入っていました。
なんで? 頭が真っ白になり、思わず壁にもたれかかりながら、ともかくすぐに帰るから、と答えるのがやっとでした。

国際電話で相談をした全日空は、すでに翌日の朝便は満席。コードシェア便のユナイテッドも席が無いとのことで、夕方に出て夜遅く羽田に着く便しか空席が無いようでした。
とりあえず羽田便を押さえてキャンセル待ちをかけて、一旦ホテルにチェックインしました。
久々に泊まった定宿のモアナ・サーフライダーは、一番安い部屋を取っていたのに、なぜかタワーウィングのカラカウア通り側オーシャンビューに数段階のアップグレード。
本来なら大喜びですが、気分は最低。なんでこんな時にこんなアップグレードがあるんだろう。
部屋に入って早々から、Skype の無料テレビ電話で妻と3時間くらいおしゃべりしました。少し落ち着いているように見えるのが、かえって不安でした。悲しすぎて、心が壊れたりしていないよね…

全日空の予約課担当者は頑張ってくれました。
スーパーバイザーとかけあって、ユナイテッドとネゴシエーションして、翌朝のUA便を1席用意してくれました。
妹の助けを借りて、日本領事館は朝8時のオープンと同時に手続きを申し込み、何とかUAに乗り込みました。
成田には、妻と娘が迎えに来てくれていました。泣き顔の妻を見て、娘は不安そうな顔をしています。
肝心な時に君たちのそばにいることができず、申し訳ない。

1月28日、今冬2度目の雪の中、病院で最終検診を受けました。
やはり胎児心拍は確認できず。
翌29日に入院して子宮口を広げ、30日に陣痛誘発をかけて、下から出すことになりました。
前回帝切は、通常また帝切になるのですが、産婦人科の教授は「帝切だとお産後の痛みがしばらく残ることを考えると、今回はできれば下から出したい」との考えでした。子宮破裂が心配でしたが、確率は低そうでした。

29日、入院する妻を病院に送り、娘を幼児教室に送り、僕はアカチャンホンポに、生まれたら着せる服を買いに行きました。
娘の時に「真っ白な服は、裏口から退院する子供が着ることが多いから、イヤだ」と言ったのですが、真っ白に、少し青い模様が入ったベスト付きの服をみつけました。
素足じゃぁかわいそうだ、と小さなフェルトの靴も。おもちゃが欲しいよね、と腕に巻く、ガラガラ音の出るラトルを1組。
箱を抱えながら、涙が流れて止まりませんでした。
会計を済ませて外に出て、廊下の一番端にあった誰もいない喫煙室に逃げ込んで、号泣しました。

入院日の夜は「GO先生も一緒に泊まりますか?」と配慮して頂いたものの、ママがいなくなってパパにしがみついている娘を母(祖母)に任せるわけにもいかず、妻は1人で寂しい夜を過ごしたようです。
30日は朝から誘発をかけましたが、昼の時点でたいした進展も無し。これは今夜か明日でないと出ないな、と、どうしてもキャンセルできなかった自分の病院の予防接種外来に出かけました。
けれど午後になって急に陣発して、結局15時22分に生まれました。

病院から妻の元に駆けつける途中でその事実を知り、またしても肝心な時にそばにいられなかった、と悔やんだのですが、後で聞くと主治医の教授も、お産には間に合わなかったそうで、すべての対応はレジデントの若い女医さんが片付けてくれたようです。「僕も間に合わなくて… すいません」と頭をかいていたそうです。
みんな間に合わないんだから、とようやく少しだけ妻が笑いました。

病棟で面会した我が子は、静かに眠っていました。在胎32週2日、体重1050g、身長38cm。
看護師長達には「パパ似ですね」と言われ、それがとても切なかった。
そっと抱き上げて、会いたかったよ、と声をかけて、頬とおでこにキスをしました。
高速道路をとばして病院に向かう車内でさんざん泣いたからか、不思議と涙は出ませんでした。


風 風 吹くな
しゃぼん玉 飛ばそ

誕生を楽しみにしていた子供です。残念ながら産声を上げることは無かったけれど、この週数でNICUにいる子供も少なくありません。1人の子供として、できるだけのことをしたいと思いました。けれど、できることってとても少ないんですよね。
病院で会った葬儀屋さんが言うには、死産届けの多くは葬儀屋さんが出すのだそうです。なるほど、親にしてみれば悲しくて辛い作業ですが、でもパパにできる数少ない事柄の1つですから、自分で届けを出しました。
父方の実家は、山梨で600年近くになる曹洞宗の古刹。従兄の息子が跡を取っているので、彼にお経を上げて欲しいとお願いしました。知らない人よりも遙かに良いよね。
聞けば、名前を決めれば、ちゃんと戒名がつくのだとか。戒名を付けて、横浜にあるお墓に埋葬することを決めました。

土曜日の妻の退院にあわせて帰宅した息子は、リビングの陽当たりの良い特等席に安置されました。
家族全員から贈られた13本の赤いバラとかわいらしい花と、おもちゃやおくるみに包まれて、棺の中は一杯でした。
かわいらしい絵の描かれた棺を見て、娘が「弟くんがいるの?」と何気なく発する言葉に涙するパパとママ。娘と息子が、庭をパタパタと走り回る日を夢見ていたんだけれどね。
その夜は棺を2階寝室のベビーベッドに連れて行き、家族4人で眠りました。

2月最初の日曜日。火葬場に向かおうと家を出たら、車のラジオから「涙そうそう」が流れてきました。何でこのタイミングでこの歌なんだ? 思わず涙があふれて困りました。
火葬場で娘が大泣きすることは無く、僕らも泣き崩れることはなく、静かな時間が流れたあとに呼ばれてみると、足の長い骨々と少しの肋骨が残っていました。かなり大きめな骨壺に静かに納められた骨は、確かに彼が生きた証でした。

今彼は、昼はリビング、夜は寝室、とパパやママに抱っこされて移動しています。
いつも誰かがそばにいる。だから寂しくないよね。
いつかまた会える日を信じて、それまでどうかお姉ちゃんを見守ってね。
君を守ってあげられなかったパパは、今一生懸命、君に贈る最後の贈り物、名前を考えています。

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2012年12月01日

サイレント・イブ

学会で大阪に来ています。
これまで何度も大阪に来ていながら、気づいたら全く観光をしていませんでした。
有名な通天閣もグリコのネオンサインも見たことが無い。
というわけで、学会最終日の夕方、思い切って散策に出ました。

梅田駅から地下鉄御堂筋線で動物園前駅まで。
ジャンジャン横町に入るとまもなく、串カツのタイムサービス割引をやっていました。「串かつ じゃんじゃん」というお店でしたが、そこそこ人が入っていたので誘われるまま店内へ。串カツ4本をちょっとつまんでみました。ソースの二度付け禁、というのは知ってましたが、説明書き通りにどっぷりつけたらソースの味しかしないじゃない(^^;)。

ちょっと小腹を満たして新世界から通天閣へ。
それほど高くない通天閣ですから、上を見上げても建物の陰に隠れて見えないのですが、なんとかガイドブック通りの写真を1枚。
どうやって上に上がるのかなぁ、エッフェル塔のように外側の足にエレベーターがあるのかなぁ、と思ったら、下の方にある展望台(?)は横のビルとつながっていて、そこがエレベーター棟なんですね。
展望台まで45分待ちと言われましたが、列に並んでみました。
思ったより早く上がれて、夕暮れる直前の大阪の街を一望しました。
ビリケンさんの足の裏をなでて、家族の健康をお祈り。
下に降りたらすでに薄暗く、通天閣にネオンが灯っていました。LEDに交換したそうですが、とてもきれいでした。

そこから日本橋へ。
東の秋葉原、西の日本橋、といわれる電気街ですが、大きな道に分断されていて、あっちのお店、こっちのお店、と動くにはかなり不便ですね。よもやこの交通量では、日曜日に歩行者天国になることもないでしょう。
裏通りは歩かなかったのですが、秋葉原のように怪しげな(?)お店、並んでいるのでしょうか?

道具屋筋が近くにあるのは買い物には便利ですね。東京だと電車で移動する距離ですものね。
さらに足を進めてなんばグランド花月前。
ここに寄り道をするとその先がありませんので、ちらっと横目で眺めてさらに進みます。

高速道路を越え、商店街の途中を右折。そのさきに法善寺横町がありました。
打ち水をした石畳の両側に趣のあるお店が並んでいます。「月の法善寺横町」というイメージが良く分からなかったのですが、一杯飲み屋さんが並んでいる田舎の飲み屋街を想像していたら、全く違った落ち着いたたたずまいで、大変驚きました。

道頓堀に出たら、土曜の夜と言うこともあり、ものすごい人混みでした。
浅草の六区に近い雰囲気でしたが、人出はもっと多いかな。
ほどなく戎橋。
ところが橋の向こうにあるはずの「グリコのネオンサイン」が見当たりません。
場所間違えたかな、と橋の上できょろきょろしたら、ネオンサインは背中側でした。
テレビで何度となく目にしたネオンサインで、あたりは記念撮影する人でいっぱい。

グリコの反対側はかに道楽ですが、さすがに1人でこの店に入るわけにもいかず、ちょっと戻ってお好み焼きの「ぼてぢゅう 総本店」へ。三種ミックス月見焼きを頼みましたが、確かにボリュームがあって、一気に食べないと胃が受け付けなくなりそうでした。

戎橋を渡り、心斎橋筋商店街から地下鉄心斎橋駅に出てホテルに戻ってきました。
全行程5時間くらい。良い運動したなぁ。

法善寺横町に入る手前で、有線の街頭スピーカーから、素敵な歌声が聞こえてきました。
目の前を行き交う人々から離れて、その歌声に聞き惚れてしまいました。
メモした歌詞をもとにホテルでぐぐってみたら、辛島美登里の「サイレント・イブ」という歌でした。
切ない歌ですね。

独り身が長かったですから、何度となく一人でクリスマス・イブを迎えましたが、あの人はどんなイブを迎えているかなぁと寂しく感じることはあっても、不思議と悲しみは無かった。
隣に誰もいないことが寂しく感じることはあっても、自分をだますように強がることは無かった。
いつかきっと暖かい聖夜を迎えるのだろう、とその日を夢見ることはあったけれど、想い出にうるむことは無かった。
こうして暖かい笑顔に包まれる日々を過ごすと、全てが笑い話に流れていくような気がします。

どこかのお店から流れてくるクリスマスソングを耳にして、今年も12月に入ったんだなぁ、と気付きました。
残り1ヶ月、やっぱり先生は走り回る1ヶ月になりそうです。
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2012年11月27日

冬が来る前に

朝晩ずいぶん冷えてきました。天気の良い日中は結構暖かいのですが、暖かいと感じると言うこと自体が寒くなった証拠なのでしょう。
通勤の往復で通る高速道路は、周りの木々がかなり色付いています。成田空港近くのインターチェンジは見事な紅葉で、これを目にするたびいつも昔見たワシントンの紅葉を思い出します。
一瞬外国にいるような、変な錯覚に陥る瞬間です。

秋の空が高く感じるのは、雲の位置が高いからなのでしょうか?
空の青さだけをとれば、むしろ夏の空の方が遙かに青い気がします。
それでも雨上がりの今日などは、とても綺麗に澄んでいて、そんな空を眺めながらドライブができる(でも遅刻だぁ と飛ばしてたりするのですが)のは幸せです。

この日曜日は、数えで3歳になる娘の七五三でした。
お宮参りの着物をグランマが肩上げ・裾上げのお直しをして、被布と草履その他のセットを購入して、準備を整えました。
天気の良い日曜日の昼過ぎ、バタバタしながらまずスタジオ・アリスへ写真を撮りに行きました。
予約をしていましたが、店内は大混雑で、予約などまったく関係なし。予約の意味なかったですね。
髪をあげて髪飾りを止め、着物を着せてもらった娘は、借りてきた猫状態で神妙な顔つきをしていました。その微妙な緊張が伝わってきて、まぁ微笑ましいこと。でもほどなくいつものお転婆娘に戻ってしまうあたりがご愛敬なのでしょう。
それでも写真撮影後の神社詣りでは、ちゃんと正座をして頭を下げ、二礼二拍手一礼もきちんとできて、えらい、えらい(笑)。

以前から友人達は、mixi よりも Facebook(FB) の方に活動拠点を移していたようで、Twitter その他で「GOさんはまだ?」と誘われていました。
昔はじめて見たFBはなんだかとても見難くて、そのまま参加する気が失せていたのですが、さすがにそろそろなのかなぁ、と悩んでいたこの頃。
友人が「七五三の写真を見たい」とつぶやくので、一瞬 Twitter に写真を流したのですが、思い直して削除し、あわててFBにアカウントを開き、写真を登録しました。

当然まだまだ使いこなせていないのですが、友人達の何人かはすぐに見つかったので「お友達」になりました。ところが、その後次々と「この人は友人ではありませんか?」とお知らせが舞い込みます。
確かに友人というか、昔一緒に働いた人だったり、旅仲間だったりと、どこからつながりを認識するんだ、と言うような人が混ざっているのに驚きました。可能性のある人を片っ端からあげているだけでしょうが、それでも結構な高率で知り合いが混ざります。
すごいですね。本当に驚きました。
ハワイの妹が紹介されたときは慌てましたけど。当然、さりげなくスルーしました(笑)。

この分だと、いつか、もうすっかり疎遠になってしまった、小学校や高校で仲が良かった友人とめぐり逢う日が来るのでしょうか。
なんだかとても楽しみです。
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2012年09月17日

秋の気配

夏の空と秋の空の違いはどこにあるのかなぁ、と、空を見上げて思うことが多くなったこの頃です。
空の青さなのか、雲の形なのか、気温なのか、バックグラウンドに流れる蝉の鳴き声なのか。
スタジオ・ジブリの映画はしばしば設定が夏で、ある意味夏の空のステレオタイプな状況を提示してくれているように思います。抜けるように青い空と、もこもことした入道雲。これが夏の空の典型例でしょうか。
「天高く馬肥ゆる秋」ですから、空が高い、というのは秋なのでしょうが、高く感じるのは雲が高いから?

朝晩は少し涼しくなってきて、昼間の暑さをようやく「残暑」と呼ぶ気になってきました。それでも暑がりな僕は、朝晩もまだまだクーラーが手放せませんけれど。
高速道路通勤をしていますが、フロントガラスやナンバープレート周りに当たる虫が少し減ってきているのも、夏の終わりを感じさせます。
そのうち、高速道路脇の木々が赤や黄色に衣替えをして、いよいよ秋も本番となっていくのでしょう。

8日の土曜日、朝いつものように電動歯ブラシで歯磨きをして口をゆすいだら、シンクにカランと落ちた物があります。拾い上げてみたら、欠けた歯でした。長さ1cmくらい。
びっくりして指で歯を触ってみると、右下奥の親知らずが、なにやらギザギザなさわり心地。気づかないうちに虫歯になって、欠け落ちたようです。

抜くしか無いかなぁ、と思いはしたのですが、妻は「前に私が抜いたときは、横に木槌が用意されていた」とか、「麻酔は針が細い方が痛くない」とか、色々アドバイス(というか、余計な情報というか)してくれるので、なにやら心細く、覚悟も腰砕けになりかけたのでした。
近隣の歯科は、母が義歯を作るためにほぼ制覇していて、どこも微みょ〜に今イチ、という評価でした。
受診先を決めかねてネットであれこれ検索していたら、ちょっと先のスーパー(ベイシア)の敷地内に新しい歯科ができているのを見つけました。
Web をのぞきに行ってみると、土日も診療で、平日は夜8時まで、とまぁ、働く人のための歯科医のよう。
しかも第2土曜日は、歯科大学の口腔外科の先生が親知らずの抜歯などに対応している、と書いてあります。
これは行くしか無い。電話をかけてみたら、何とか昼前の予約も入りました。

診察室に入って10秒で、僕の氏素性がばれました。
歯科衛生士のお姉さん(と呼ぶには少し時間が経ってしまった女性)が、「有名な先生なんですよ。私の友人も、GO先生の診察を目指して受診すると言ってました」と口腔外科の先生に説明しています。
ありゃぁ、ばれちゃいましたか。
となると、あまり「麻酔が怖い」だの「針が痛いのはヤダ」とかわがままは言えません。
レントゲンを撮ったら、やはり抜歯が望ましい、とのことで、最初の覚悟通り、抜歯をお願いしました。

針はチクッと痛かったですし、電動注射器で打たれた麻酔薬も微妙に痛かったですし、あごの骨はギシギシきしんでいるし、両手をぎゅ〜〜〜っっと組み合わせて、何とか耐えがたきに耐え抜歯したのでした。
抜いた後は結構大きな穴で、結局軽く4針縫合されました。
以後の痛みはロキソニンでごまかす日々。今でも1日に2回は飲まないとダメです。

抜歯から5日くらい経った頃、右あご、ちょうど親知らず抜歯後に腫れていたあたりの皮膚が、カサカサむけているのに気づきました。
痛み止めに少しは効果があるかと期待して塗った、タイガーバームのせいかなぁ、と漠然と思っていたのですが、翌日少し発赤。なんだか変だなぁ、と思いながらも、学会で大阪に移動しました。
抜歯から1週間経った土曜日はさらに赤みが増えていました。そして今日(日曜日)の朝、顔を洗ったあと、しげしげと鏡に映る発赤疹を眺めていて、少しブツブツしているのに気づきました。そっと指であごをなでてみると、その発疹部分だけ少し触っている感覚が鈍い(感覚鈍麻)。そういえば少しだけピリピリした刺激的な痛みもあります。
あれぇ、もしかしたら帯状疱疹?

疑いながら学会場に行き、先輩・後輩達4人に声をかけると、みんなが「帯状疱疹だねぇ」と僕の診断を支持するのでした。
なんだかがっかりしていたら、先輩の1人は「まぁ、そういう歳だということでしょう」と慰めてくれましたが、それは慰めになっていないような気がする。
最後の1つのシンポジウムをパスして、本来より4時間早く帰宅し、そのまま大学病院へ行って抗ウィルス薬の内服薬と軟膏を手に入れてきました。

帯状疱疹はストレスでへばったり抵抗力が落ちてきたときに出る病気ですから、漠然としたイメージでは青春真っ盛りの人がかかることはありません。その後、まだバリバリ脂がのって働いている人にも少なそう。
と言うことはその後の、何となく枯れ始めた世代に自分もさしかかってしまった、という事なのでしょうか。
青い春だの盛夏とまでは言わないけれど、まだ夏にいると思っていたのですが…
ピリピリとした痛みが出始めた発疹を眺めながら、夏と秋の違いについて、もう一度考え込んでしまったのでした。
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2012年08月21日

おかたづけ

今年の夏休みも、ハワイ9日間の旅です。娘が生まれてから、これで3年連続ホノルルになります。
ところが今年は、僕らの帰国にあわせて、ホノルル在住の妹が1歳半になる三つ子ちゃんを連れて里帰りをするそうです。里帰りですから、当然成田から直行で我が家に泊まるわけです。泊まるんですか…

この家を建てたときは、僕はまだ独身でしたから、2階の一番奥の部屋を「妹の部屋」としました。
横浜の実家を処分したとき、彼女が日本に残していった帽子だの服だの細々としたアクセサリー類だのカセットテープだの仕事していた頃の資料だの、全部この部屋に納めました。
結婚をしたら、崩壊していた寝室に住人がもう1人増えたわけで、それに伴って何となく押し出された本やCD・DVDやパソコンソフトや引っ越し以来ほとんど開けていない段ボール箱なども、この「妹の部屋」に押し込まれました。
客間は客間らしく、美しく整頓されていれば良いのですが、体の良い物置部屋と化していたわけです。
…片付けねば…(^^;)

本の一部は寝室に戻して、圧倒的大部分は地下室に下ろさなくてはなりません。
CDやDVDは寝室に戻します。パソコンソフトも寝室です。
段ボール箱は整理して、多分ほとんどを地下室です。

となると、荷物の受け皿となる寝室・地下室の整理も必要です。

寝室は、それまで本棚代わりに使っていたカラーボックスが、いよいよ本の重みに耐えかねて、棚板はたわむわ、1枚はついに割れるわで、新しい本棚が必要です。
CD・DVDを収納するラックも必要です。
え〜と、まず本棚とCDラック、買わなくちゃ。

で、楽天で見つけました。本棚に良いセミオーダーラック。高さ 135cm、奥行き 31cm、棚板 25mm 厚、棚板移動ピッチ 1.5mm。楽天中探し回って、この【タフ仕様】セミオーダーラック(オーダー本棚)が一番安かったので、2つほど購入しました。
CDラックは、前後2列並ぶと奥が見えなくなるので、薄型で安いものを探しました。MODEL というお店のこの木製CDラックが薄型で、その割に収納力があり、かつ安かったので、これも1つお買い上げ。
あれぇ、片付けるはずがかえって物が増えている様な気が… まぁ、いっか。必要だし。

届いた本棚は、確かにタフ仕様で、なかなかしっかりした作りです。本の高さに合わせて、1つは大きめの本を入れて4段、もう1つは新書版や四六判にあわせて、追加棚板1枚で合計5段。
これまでのカラーボックスとは雲泥の差で、妻も「本棚らしくて良いね」と気に入ったようです。
CDラックも薄型ながら結構な収容力で、少なくとも寝室周りにあったCD・DVDはほぼ収まりました。パソコンソフトもゲームは思い切って捨てて、必要な物だけをCDラックに収めました。ただ、量が多くてやっぱり少し収まりきらなかったので、とても薄いCDケースを購入して、これに入れ替えました。サンワサプライのこの薄型CDケースは、恐らくケースとしては最安値です。もうこのところ、最安値を探すことに血道を上げてます。ケース2枚で通常のケース1枚分の厚さなので、スペースを圧縮。これで何とか全てのCD・パソコンソフトが収まりました。

さて、寝室に本を戻すなら、押し出された分は地下室に下ろさなくてはなりません。
「妹の部屋」に大量に積まれている本も下ろさなくてはなりません。
ということは、地下室も片付けなくてはならない、ということです。
この地下室、昭和1ケタ生まれの母が「もったいない」お化けを連発して、捨てようとしたテレビ台だの妹愛用のバイクのヘルメットだのそれこそ10年以上使っていないようなものまで、見事に山積みになっています。
しかも地下室の一番奥には、かつて独身時代に一人暮らししていた頃に使っていた(つまり10年以上も前の)洗濯機があります。同じく10年以上前に、横浜の実家で妹が使っていた、窓置きのクーラーもあります。どちらももう相当に古いですし、今更使うわけも無い。
捨てようとしたらさんざん「もったいない、『捨てる』と言う言葉はイヤだから聞きたくない」と母に文句を言われたのですが、そこは強引に押し切って廃棄処分。地下室から洗濯機を1人で出そうとしたら、重みに負けて階段を落ちかけて、危うく死ぬかと思った(^^;)。 妻に手伝ってもらって何とか表に出し、週末に回ってくる廃品回収業者に出しました。回収手数料は、洗濯機 3,000円、クーラーはタダでした。とりあえず安かったので、連絡先の載っているチラシをもらいました。まだ出す物ありそうだもんね。でもそもそも今から10年前、引っ越しの時に捨てていればタダで処分できたのに…

少し広くなった地下室に、寝室からカラーボックスを1つ下ろして本棚代わりにして、2階からせっせと本を下ろしたのですが、あっという間にいっぱいになってしまいました。なんでこんなに本が多いんだ… というか、本を取っておきすぎるのか。
背に腹は代えられないので、思い切って10年以上ため込んだ「月刊エアライン」の大多数を、ベイシアにある古紙回収ボックスへ持って行きました。アルクの会員誌だの、国家試験の参考書だの、アメリカの国試を受けたときに使った「オクラホマ ノート」という参考書だの、もういい、えいやっ!! とまとめて古紙回収へ。1Kg が1.2円で、これが思いの外結構なお金になりました。

こうして1ヶ月毎週末土日を費やして、ようやく「妹の部屋」の床が見えるようになった(苦笑)。
まだ未整理の段ボール箱がいくつもあるのですが、何となく先は見えてきました…って、本当かな。結局捨てることはできずに全部地下室に下ろすだけだったりして。「片付け」では無くて、「移動」に終わったりして。

おかたづけ おかたづけ さあさ みなさん おかたづけ

幼稚園生だってお歌歌いながら片付けられるんだもん、僕だって…
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2012年08月06日

色ずれ補正が実行されていません

レーザープリンターの印字がきれいなのは、その手のプリンターを使ったことがある人なら、誰でも知っていることです。
インクジェットを使ったときの微妙なインクのにじみがない分、文書などの印刷はやはりレーザープリンターに勝るものはありません。
カラーのレーザープリンターとなると、かつて職場で購入した際は、A3対応だったこともあって、数十万円しました。ですから、カラーのレーザープリンターは高い、と思い込んでいたのですが、何気なくWebをさまよっていると、「1万円キャッシュバックキャンペーン中」というキャノンの広告を見つけました。しかも、予想外に安かったんです、カラーのレーザープリンターが。

どうしても必要か、と問われれば、絶対に必要、と言うわけではないものの、あったら便利だよな〜 とは思うわけです。でも無くても何とかなるかもしれない。しばし葛藤しながら、楽天ポイントが沢山たまる日に、思わずポチッとな、してしまいました。キャノン LBP5050N。キャッシュバック利用で3万円ちょっとでした。しかも「N」が付いているということは、ネットワーク対応です。家庭内LANにつないで、複数のパソコンから利用ができます。
1階リビングのパソコンからも、2階寝室のパソコンからも、2階妻の書斎(? アイロン部屋? 笑)のパソコンからも利用可能です。
届いてみたら、ネットワークの設定が無茶苦茶難しかったのですが(自動では設定できず、IPアドレスその他手動で設定する羽目になりました)、それでも何とか設定終了。
以後、パーソナルユースですから、たま〜にの利用ですが、電源オンから印刷までの時間が早く、しかもカラーのレーザープリンターで、とても便利に使っていました。

先月で購入からちょうど2年が過ぎました。
何となく、そろそろトナーが必要になるのだろうか、とまるで今から思えば虫が知らせたように、楽天市場の「純正トナー・プリンターのボイス」で、お買い得な「キヤノン純正品・4色パック」のトナーを購入していました。このお店、レーザープリンターを購入したお店ですが、少なくとも純正トナーも結構割安なので、前々からお気に入り登録していました。

さて、この頃初めて、B5の用紙に印刷をする必要が出てきて、手差し印刷をするようになりました。
あるとき、印刷したい用紙はB5なのに、pdf の印刷設定はA4のままで印刷してしまいました。
排出された用紙を見ると、明らかに紙をはみ出して印刷しているらしい。
しかも次の用紙はジャムってプリントエラー。途中で引っかかっている用紙を、力業で取り除きました。

すると、次の印刷で見事に色ずれが起きていました。
プリンターは自動的に色ずれ補正を開始して、キャリブレーションまで終わって、「色ずれ補正が実行されていません。」のエラーが出ます。
タスクバーから「CAPTプリンター」を呼び出して、手動で色ずれ補正をかけても、必ず「色ずれ補正が実行されていません。」のエラーが出ます。
あらぁ、壊れた?(^^;)

インターネットで検索しまくってみるのですが、あまり有効な対策が得られません。
「最近交換したトナーカートリッジが再生品・社外品だったので、キャノン純正にしたら直った」とか、「エアダスターでプリンター内を吹いてみたら直った」という情報はありました。「定着ローラーにトナーが偏って付いていたので綿棒できれいにした」という情報もありましたが、定着ローラーって、各トナーに付いている大きなローラーでしょうか?
ただ、購入して2年、まだ白黒もカラーも、それぞれ 200枚弱しか印刷していないわけですから、トナーは当然購入したときのまま(=キャノン 純正品)。
そこでとりあえず、トナーを外してみてローラーをきれいにしてみたり、エアダスターのノズルをプリンター本体内に差し込んで、とりあえず辺り構わず(苦笑)エアーを吹いてみたり。電源投入時に「CAPTプリンター」から手動クリーニングを指示実行もしてみました。
でもダメ。何をやってもダメ。

電源投入時だけはエラーが出ないので、試しにカラー印刷をしてみると、わずかに青(シアン)がずれていますが、そのずれは 0.1mm 程度。思わず「これぐらいなら良いじゃん」と泣きを入れるのですが、プリンターは律儀に自動的に色ずれ補正を実行して、しっかり「色ずれ補正が実行されていません。」のエラーを返してきます。

しかも検索かけまくっていたら、昨年11月に、パーソナルユース用の Satera LBP7010C というA4カラーレーザープリンターが出たそうです。実売2万円強。安いですね。

ついにあきらめて昨日キャノンのサポートに電話をしました。
サポセンの女の子は、「お客様でそれだけ色々やってダメなら、後は修理しかないですねぇ。サポート契約されてますか?」 いや、そんなすぐに壊れないだろうと、サポート契約なんてしてません。キャノンのプリンターは壊れないイメージ持っているし… 「サポート契約ないと、出張訪問費とか技術料とかかかります。概算で最低 24,000円… 機械的な故障だと部品代は別途必要になります。」
うわ、高い。その値段なら、Satera LBP7010C 買えるじゃない。

ともあれ、修理担当のサポート会社から連絡をもらうことにしました。
で、今日の昼、約束の時間に電話がかかってきました。
担当のお兄さん、もう一度僕から症状を聞くと、「色ずれ補正のエラーは、まずトナーがらみなんですよね〜 純正品をお使いだそうですが、トナーは未開封で2年、開封したものだと1年が有効期限です。もう購入から2年だと、トナーが劣化していてエラーが出ている可能性があります。手持ちの新品トナーに交換されてみることをお勧めしますが。」と回答。
う〜〜ん、もし出張修理しか対策が無いなら、費用は Satera LBP7010C 買うより高そうだから、それならあきらめて新しいプリンター買って、手持ちの交換用トナーはオークションで売りたいんだけどなぁ。メカニカルなトラブルの可能性は? 「その可能性も否定はできませんし、もしそうなら最低3万円以上の費用が発生しますから、買い換えの方が安いですね。でも、今回のようなケースは、まずトナートラブルの可能性が非常に高いので、私としてはトナーを交換してみることをお勧めしますが… まずシアンを変えてみて、それでダメなら残り全部交換してみます。」

そこまで言われたら、とりあえず交換してみますか。
帰宅して一息ついて、早速ごそごそしてみました。
まずはわずかに色ずれしているシアンを交換。電源投入すると新品トナーに交換したことを検知して、自動的にセットアップが始まります。どきどきしながら待つことしばし、最後は色ずれ補正まで来て、やっぱり出ました、「色ずれ補正が実行されていません。」
がっかりしながら、お兄さんの助言に従い、残りのトナーを交換してみます。
再度電源を投入すると、再びセットアップが始まります。ところが今度はそのまま何のエラーも出ずに、「印刷できます」画面となりました。
半信半疑で、色ずれ補正を手動で実行してみると、またまたエラーなしで終了します。
あら?
期待しながら、試しに24色の色相環チャートなんて言うのを印刷してみました。今度は色ずれなしに、とてもきれいに印刷できました。

あら? 直った?(嬉)
色ずれ補正のトラブルはやはりトナーに原因がある、純正品で外見上壊れていなくても、経年劣化があるので1年以上経っていたら交換してみる、というのが正解のようです。
うわぁい、これでまたしばらくは、プリンターが使えそうです。2万円出して新しいのを買わずにすんだ(笑)。
でも、トナーが1年でダメになるなら、もったいないとか言ってないで、使い切るつもりで印刷しまくった方がお得かもしれませんね。
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2012年02月28日

Smile

朝の通勤は、大抵 J-Wave 別所哲也さんの TOKYO MORNING RADIO を聴いています。
エンジンをかけた時にこのプログラム、高速の入り口ではこのプログラム、でもオービスのあたりでこのプログラムだと遅刻かな〜 と、おおよそのタイムキーパー代わりになっています。

この番組でかかる歌は、たま〜に「あれっ?」と思う歌なのですが、先日の番組で流れてきたのは、MISIA さんの Smile でした。
確かこの歌って、チャップリンの「モダン・タイムス」だったような気がするなぁ、と思って、職場に着いてからぐぐってみました。
やっぱりそう。MISIA バージョンは映画「friends もののけ島のナキ」の主題歌だそうです。
最近あまり映画見ないから、どんな映画なのか知らないのですが、歌の方は、先の大震災被災地の子供達がコーラスで参加しているのだと、別所さんが語っていました。

ぐぐって最初に見つけたのは、マイケルジャクソンの Smile
あ〜、この歌声も良いなぁ、と朝の慌ただしさの中、思わず聞き惚れてしまいました。

「スマァ〜ィル」と声をかけると、微妙に引きつったような笑顔を見せる娘は、この23日に2歳の誕生日を迎えました。
甘いもの大好きな僕が、すぐにケーキだのチョコレートだのを与えがちなので、しばしば妻に厳しく制止されるのですが、誕生日はケーキが食べられる。娘はそれを知ってますので、数日前から「ハッピバースデーなの」と連呼していました。
いざケーキを前にしたら、もう自分から歌う、歌う。しっかり「ハッピバースデー」の歌を1曲歌いきって、でもろうそくはうまく吹き消せなくて。ちょっと困った顔をしながら「スマァ〜ィル」のかけ声に何とか笑顔を見せて、ママのカメラに収まっていました。

めいっぱい仕事して、少し疲れて帰宅した家の中に、Smile があるとほっとします。
それは妻の笑顔だったり、娘の笑顔だったり、同居している母の笑顔だったり色々ですが、笑顔があれば、確かに家の中が明るくなります。

いやなことがあったり、腹を立てたり、泣きたくなっても、無理に笑顔を作れば、少しは気分も軽くなるのでしょうか。
このところ、虐待されて亡くなる子供のニュースが立て続いていて、仕事柄とても気分が滅入るのですが、きっと虐待した大人達は、この Smile の魅力に気づけなかったのでしょうね。
僕は、「パパァァ」と大声で両手をあげて飛びついてくる娘の笑顔を見れば、間違いなく1日の疲れは取れるのですが。

You'll find that life is still worthwhile
If you just smile…
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2011年12月29日

希望という名の光

今年も冬入り口の仙台に降り立ちました。
毎年12月29日に行われる電子カルテの会議(兼忘年会?)出席のためです。
成田−仙台のANA便(IBEX 運航)が復活し、いつもと同じようにこの飛行機で飛びました。
降り立った仙台空港は、津波で甚大な被害を受けたみじんも見せず、年末の旅行客でごった返していました。
しかし機内から見下ろした海岸線は、本当に何もなくて、津波でなぎ倒された防風林が無残な姿を残していました。

空港ロビーには「トモダチ・オペレーション」の写真展があり、1階・2階その全てを拝見しました。
空港に押し寄せる津波、土砂とがれきに埋まった空港や街並み、懸命に作業する人々の姿、一緒に働く多くのアメリカ軍兵士や自衛隊員達。テレビで何度となく目にした光景でしたが、改めて写真を眺めていると、想像を絶する惨状に息をのみました。
その写真たちの中にあった、アメリカ軍兵士に肩車をされる子どもの屈託のない笑顔と、そっと黒人兵士の手のひらにタッチをする小さな子どもの姿を見たとき、涙が出ました。

3月11日14時46分。
あの日僕は、千葉や茨城各地から集まった多くの保護者達に、不活化ポリオワクチンの説明をしていました。
あ、地震だ、と気づいた直後から揺れは大きく、会議室入り口のドアにつかまって立っているのがやっと。何人かの人は会議室を出て、そのまま病院の外に走り出していました。
窓から見える駐車場の車は、異様なほど揺れていて、地震の大きさを実感させられました。
説明会を中止してほどなく、東北地方を甚大な地震が襲ったこと、10mを超す津波の警報が発令されたことが事務局から伝えられ、災害拠点病院に指定されている病院は、災害時緊急体勢に入りました。
電気が止まり、自家発電で得るわずかな電力の中、救急外来のパソコンからは、津波に襲われる街の映像が流れてきました。
幸いにして自宅も家族も無事でしたが、病院周辺は液状化が起き、橋が落ちたり道路が陥没したりで大騒ぎでした。
運び込まれる患者さんが一息ついた18時半過ぎ、同僚達の勧めもあり小さな子どもの待つ我が家へと帰路につきましたが、通行止めの東関東道を避けて渋滞している一般道からさらに裏道へ抜けて、普段45分の道のりを5時間かけて帰宅しました。
週末病院からの応援要請はなく、家族とともに過ごせましたが、電気・ガス・水道の止まった病院は、大変な週末を過ごしたようです。

停電を免れた我が家でテレビを見ながら、福島・仙台の友人達を心配したのですが、津波が自宅の100m手前まで押し寄せた友人を含め、後日全員の無事が確認されて安堵したものです。
小児科学会、小児アレルギー学会は急ぎ支援に乗り出しましたし、病院スタッフもDMATを含め被災地入りしていましたが、医師が1人しかいない小児科を守るのがやっとの僕は、後方支援しかできない歯がゆさを感じたものです。

空港から市内に向かう仙台空港アクセス線の窓からは、仮設住宅群が見えました。
市内は地震の陰などみじんも見せない賑わいでしたが、この瞬間にも先の見えない不安の中に置かれた人々がいることを再確認しました。

頑張っている人たちに、これ以上頑張れ、という言葉を投げかけることはできません。
しかし底知れぬ闇の中からも、かすかな光のきざしが見えることを祈ります。
あなたたちを照らし続ける、希望という名の光が見えることを祈ります。

今年も残りわずか。
皆さんにとって、来年が素敵な年でありますように。
今年も温かい友情を、ありがとうございました。

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2011年10月31日

人生の扉

一度も一緒に仕事をしたわけではないのですが、兄弟子の友人ということから、なぜか学会でお会いすると必ず夜中までご一緒する先輩医師がいます。
カラオケがお好きで、しばしば3次会か4次会はカラオケになります。
周りは夜中まで振り回されることになるのですが、明るいお人柄のためか、先輩後輩友人ライバル関係なく、元気のある人(無い人も?)はいつも最後までおつきあいします。

学会で福岡に来たら、やはり仲の良いもう1人の先輩医師から、「病気になったんだって?」とうかがいました。
顔色が悪かったのは、朝7時半からのモーニングレクチャーの座長を仰せつかって(前の晩飲み過ぎないようにとの会長の温かい配慮?)早起きしたからじゃないのかなぁ、と笑ったのですが、どうもそれだけではなさそう。その不安は的中して、懇親会後の飲み会で、とてもにこやかに「腎臓がんやってさぁ。腎臓の半分取っちゃったから無いの」とおっしゃる。
まだ50代半ば。働き盛りの年齢ですから、笑顔の裏にある心情を思うと、一瞬絶句しました。
飲み会での話題は、すぅっとほかに流れましたから、それ以上詳しく聞くことはなかったのですが、次の店に移動するタクシーの中で、「酒? 酒は飲めるさぁ。でもお腹触らないでね、痛いから。・・・執行猶予5年だなぁ」と笑っていらっしゃいました。5年生存率が何パーセントとかおっしゃっていましたが、小さな声で聞こえませんでした。

途中で寄ったホテルで、4次会になる次の店をどこにするのか、一瞬逡巡したのですが、先輩の希望で、結局前にも来たことのあるキャナルシティ裏の不思議なカラオケ屋さんに決まりました。
部屋では全くいつもと変わらず、すでに沢山食べて来たはずなのにまあピザを食べるの酒を飲むのと、お元気そのもの。大好きな歌をシャウトしながら歌うのも、いつもと同じ。
お好きな竹内まりあの歌を一曲歌ったのを聴いて、僕の番でふと何気なく「人生の扉」を歌いました。
歌が始まったら、それまで隣の先生としゃべっていたのに、歌詞の流れるモニター画面をふぅぅっとご覧になりました。

陽気にはしゃいでた 幼い日は遠く
気がつけば五十路を 越えた私がいる

I say it's fun to be 20
You say it's great to be 30
And they say it's lovely to be 40
But I feel it's nice to be 50

そう、ここまでは確かに歌の通りだったと思うんです。
学会でもそれなりに名前の通った医者となり、いくつかの病院で活躍した後転身した開業も順調だし、お子さんも健やかに大きくなっていらっしゃるし(超?高級ベンツを買ってあげたそうです)、端から見れば順風満帆。

満開の桜や 色づく山の紅葉を
この先いったい何度 見ることになるだろう

このフレーズを歌いながら、もしかしたらこれは先輩の今の心情そのものなのか、歌の選択間違えたか? と余計な気を回したのですが、当のご本人は黙って歌詞の流れる画面を眺めるばかりでした。

I say it's fine to be 60
You say it's alright to be 70
And they say still good to be 80
But I'll maybe live over 90

生きられるのならいつまでも生きたいとは思いますが、どんなに頑張っても生きられるのは寿命まで。
その寿命が短いのか長いのか、分からないから良いのだ、と言われたことがありますが、分からないからみんな不安になるわけです。
解夏のように、苦行が結実すれば、そこで開き直れるわけですが、ある日突然病気と寿命を告げられても、誰もがそうそう解脱できるわけもなく、不安を抱え悩み苦しみながら這いずり回るしかない。
やはりがんというのは、自分のこの先を考えさせるだけの衝撃がある病気だと思うのです。

僕だって、五十路が近づき、いつどんな病気に襲われるか分かりません。
家族ができると、家族への責任を強く感じますから、何かあったらどうするか、密かに考えないわけでもありません。
それでもなるべくなら目をそらしたいリスク。こうして現実に突きつけられると、あらためて我が身のことを思うのでした。

君のデニムの青が 褪せてゆくほど 味わい増すように
長い旅路の果てに 輝く何かが 誰にでもあるさ

突然、もう1本のマイクを握りしめて、僕よりも大きな声で歌い始めました。

I say it's sad to get weak
You say it's hard to get older
And they say that life has no meaning
But I still believe it's worth living

本来、このブログで同じ歌を2度取り上げることはしない、と決めていたのですが、どうしてももう一度、この歌で書いてみたいと思いました。
5年の執行猶予期間の間、カラオケに行ってもこの歌を歌うのは封印します。
だから執行猶予があけたら、きっとまた、一緒にこの歌を歌いましょうね、先輩。
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