2013年06月07日

夢見る(?)少年だった頃、ノストラダムスの大予言が当たるならば、自分の一生はわずか35年なのだ、と悲しく思ったことがあります。
「恐怖の大王」がやってくるとき、きっと僕は結婚していて子供がいて、でもその子供をどうやっても守れないのだろうか、と、ませた子供(ガキ)は真剣に悲しんだものでした。
けれど、いよいよその年が近づいても僕は独身で、守るべき子供には出逢えていませんでした。
めっきりと夢を見なくなってしまった訳知り顔の大人は、それでも7月を迎え、もしかしたら本当に何か空から降ってくるんだろうか、とほんの少し不安に思ったのを覚えています。
結局何事も無く過ぎたのは周知の通りな訳ですが(笑)、僕が守るべき子供に出逢うには、さらに10年の時間が必要になるとは思わなかった(苦笑)。

夢見る(!)青年だった頃、めぐり逢う人はめぐり逢うべくして出逢うのだろうか、と真剣に考えていました。
いつめぐり逢うのだろうか、どこにいるのだろうか。出逢った瞬間に分かるのだろうか。それとも気付かないうちに隣にいるのだろうか。運命の人なのか、成り行きなのか。
色々な出逢いを想像しては、その日を楽しみにしていました。
けれど、出逢いの全ては決して結実することはなく、まさか何ら成果を得ないままに青年期が終わるとは思わなかった(苦笑)。

夢を忘れがちになった壮年になって、夢は努力しなければ手に入らないのだ、という最も基本的で重要な事実に、ようやく向き合うことができました。
このままじゃいけない、想像するばかりでは無く行動をしよう、とようやく重い腰をあげたわけですが、それでもまだどこか夢見がちで現実離れしている日々。
長年の習性は、そう簡単には変えられない、ということなのでしょう。
思い至っても、真剣に婚活を始めるまでには、微妙に時間が必要でしたし、その婚活でさえ、初めのうちは理想と現実との溝を埋めることができず、空回りしていました。

出逢いは本当にわずかな偶然の重なりの上。
以前書いたように、その出逢いはもしかしたらすれ違って終わるものだったのかもしれません。
それでも出逢った、という不思議は、運命の巡り合わせ(=仕合わせ)と呼ぶものなのでしょうか?

縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない

縁があって出逢った2人は、それぞれの家族を繋ぎ、新しい家族を作り、お互いの人生を重ね合いながら自分たちなりの布を織り上げていくことになるのですが、もしその縁が誰かの癒やしになるのならしあわせなことです。

その布はきっと色々な色の糸で織られていて、結果として賑やかだったりうるさかったりこれも色々なのかもしれませんが、もし触りたくなる柔らかさを保てるのなら、きっと周囲の邪魔にはならないでしょうし、触りに来てくれるひともいるかもしれません。

織り続ける布の色の中には、喜びの色も、悲しみの色も混ざっていくのでしょうが、もし縦の糸も横の糸も途切れること無く織りなしていけるのならば、きっといつか素敵な布に仕上がるに違いない。そんな風に思います。

この1年は、まさに喜びと深い悲しみとに揺れた1年でした。
一緒に泣けるということは、悲しいことだけれど幸せなことだと知りました。
きっとお互いに1人きりでも泣いていたのでしょうけれど、人のぬくもりと支え合い分かち合うことの暖かさを知りました。
大きな癒やしになったのは、子供の無邪気な笑顔と寝顔でした。
その笑顔を守るために、何ができるのか。自問する日々です。

縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます

出逢わなければ経験しなかった悲しみは、いつの日か、出逢ったから経験した喜びの中に埋もれていくことでしょう。
僕らにとっての仕合わせが、幸せにつながりますように。
4回目の結婚記念日に。
いつもそばにいてくれて、どうもありがとう。


posted by GO at 16:11 | Comment(3) | TrackBack(0) | 雑文