2013年02月19日

しゃぼん玉

しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで こわれて消えた

娘が生まれたあと、なかなか次の子供ができず、どうしたものかと思案していた日々。
ハワイの妹が、「私が飲んだ不妊対策用の漢方、試した?」と何気なく語ってくれて、そういえばそんなものがあったなぁ、と早速試してみたのでした。
飲み始めたら、本当にすぐにご懐妊。
なんだか信じられなくて、でも嬉しかったのを覚えています。

男の子が欲しいなぁ、と、夫婦で「男女産み分けの本」などを読みあさり、排卵(妊娠では無くて)検査薬まで準備して望んだ妊娠。
念のために行った羊水検査の結果は「46XY」。男の子でした。
一姫 二太郎、とても素敵です。
これで娘にかかる負担を少しは減らせるかと、心から嬉しく思いました。

週数を重ね、少しずつ出っ張ってくるお腹を触り、今度は骨盤位じゃないのかなぁ、と僕は笑っていました。
娘の保育園送り迎えの車内で流れる英語の童謡が好きなようで、音楽が流れるといつもお腹を蹴っている、と妻が笑っていました。

24週を過ぎて12月も末になってきた頃から、少し妻の血圧が高くなってきました。
40代前半の高齢ですから、妊娠高血圧症のリスクは十分あるわけですが、相変わらずお腹の赤ちゃんは元気で、体重増加もまずまずだったようです。
28週過ぎれば小児科的には対応できるけれど、32週くらいまでもってくれたら何とかなるんだけどなぁ。34週だったらかなり楽だなぁ。36週は「ただチビちゃん(ただチビなだけ)」だよ。僕の小児科医としては何気ない言葉を、妻はどんな風に感じて受け止めていたのでしょうか。

年が明けて、連休で里帰りをしていた妻から、「血圧が高い」と連絡が入りました。「150/100 くらい。」
当直の産科医に相談してみたら、「そのくらいならまだ心配ない」との回答で、それでも血圧は高めが続くので、再度漢方薬局に相談し、当帰芍薬散を飲み始めたのでした。
飲み始めたらすぐに、血圧が10程度減少。漢方にしては効果発現が早いなぁ、とは思ったのですが、少なくとも血圧が下がるのは悪いことではないので、ちょっと安心したのでした。


しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた
うまれてすぐに こわれて消えた

ハワイの税金申告のため、どうしても一度ホノルルへ飛ぶしか無く、日程調整をしていました。
妻の血圧も少し下がったので、これなら良いか、と1月24日夜の便でホノルルへ飛びました。
着いてみたらホノルルは雨。何度となくホノルルに来ましたが、傘が必要なほどの雨は初めてでした。
ともあれ着いてすぐ、バタバタと走り回って、どうやら日本領事館でパスポートの認証を受ければ良いらしい、と分かったのは現地の午後。残りは翌日片付けることになりました。

妹の家に戻ってのんびりしていたら、妻から携帯に電話が入りました。出てみると雑音がひどくて、結局そのまま切れてしまいました。時刻は日本の昼前。丁度妊婦検診が終わった頃です。何となく胸騒ぎを覚えてすぐに折り返すと、電話機の向こうで妻が「赤ちゃんの心拍が無いの」と震える声で報告してきました。
妊娠31週4日。3月11日には帝王切開の予約が入っていました。
なんで? 頭が真っ白になり、思わず壁にもたれかかりながら、ともかくすぐに帰るから、と答えるのがやっとでした。

国際電話で相談をした全日空は、すでに翌日の朝便は満席。コードシェア便のユナイテッドも席が無いとのことで、夕方に出て夜遅く羽田に着く便しか空席が無いようでした。
とりあえず羽田便を押さえてキャンセル待ちをかけて、一旦ホテルにチェックインしました。
久々に泊まった定宿のモアナ・サーフライダーは、一番安い部屋を取っていたのに、なぜかタワーウィングのカラカウア通り側オーシャンビューに数段階のアップグレード。
本来なら大喜びですが、気分は最低。なんでこんな時にこんなアップグレードがあるんだろう。
部屋に入って早々から、Skype の無料テレビ電話で妻と3時間くらいおしゃべりしました。少し落ち着いているように見えるのが、かえって不安でした。悲しすぎて、心が壊れたりしていないよね…

全日空の予約課担当者は頑張ってくれました。
スーパーバイザーとかけあって、ユナイテッドとネゴシエーションして、翌朝のUA便を1席用意してくれました。
妹の助けを借りて、日本領事館は朝8時のオープンと同時に手続きを申し込み、何とかUAに乗り込みました。
成田には、妻と娘が迎えに来てくれていました。泣き顔の妻を見て、娘は不安そうな顔をしています。
肝心な時に君たちのそばにいることができず、申し訳ない。

1月28日、今冬2度目の雪の中、病院で最終検診を受けました。
やはり胎児心拍は確認できず。
翌29日に入院して子宮口を広げ、30日に陣痛誘発をかけて、下から出すことになりました。
前回帝切は、通常また帝切になるのですが、産婦人科の教授は「帝切だとお産後の痛みがしばらく残ることを考えると、今回はできれば下から出したい」との考えでした。子宮破裂が心配でしたが、確率は低そうでした。

29日、入院する妻を病院に送り、娘を幼児教室に送り、僕はアカチャンホンポに、生まれたら着せる服を買いに行きました。
娘の時に「真っ白な服は、裏口から退院する子供が着ることが多いから、イヤだ」と言ったのですが、真っ白に、少し青い模様が入ったベスト付きの服をみつけました。
素足じゃぁかわいそうだ、と小さなフェルトの靴も。おもちゃが欲しいよね、と腕に巻く、ガラガラ音の出るラトルを1組。
箱を抱えながら、涙が流れて止まりませんでした。
会計を済ませて外に出て、廊下の一番端にあった誰もいない喫煙室に逃げ込んで、号泣しました。

入院日の夜は「GO先生も一緒に泊まりますか?」と配慮して頂いたものの、ママがいなくなってパパにしがみついている娘を母(祖母)に任せるわけにもいかず、妻は1人で寂しい夜を過ごしたようです。
30日は朝から誘発をかけましたが、昼の時点でたいした進展も無し。これは今夜か明日でないと出ないな、と、どうしてもキャンセルできなかった自分の病院の予防接種外来に出かけました。
けれど午後になって急に陣発して、結局15時22分に生まれました。

病院から妻の元に駆けつける途中でその事実を知り、またしても肝心な時にそばにいられなかった、と悔やんだのですが、後で聞くと主治医の教授も、お産には間に合わなかったそうで、すべての対応はレジデントの若い女医さんが片付けてくれたようです。「僕も間に合わなくて… すいません」と頭をかいていたそうです。
みんな間に合わないんだから、とようやく少しだけ妻が笑いました。

病棟で面会した我が子は、静かに眠っていました。在胎32週2日、体重1050g、身長38cm。
看護師長達には「パパ似ですね」と言われ、それがとても切なかった。
そっと抱き上げて、会いたかったよ、と声をかけて、頬とおでこにキスをしました。
高速道路をとばして病院に向かう車内でさんざん泣いたからか、不思議と涙は出ませんでした。


風 風 吹くな
しゃぼん玉 飛ばそ

誕生を楽しみにしていた子供です。残念ながら産声を上げることは無かったけれど、この週数でNICUにいる子供も少なくありません。1人の子供として、できるだけのことをしたいと思いました。けれど、できることってとても少ないんですよね。
病院で会った葬儀屋さんが言うには、死産届けの多くは葬儀屋さんが出すのだそうです。なるほど、親にしてみれば悲しくて辛い作業ですが、でもパパにできる数少ない事柄の1つですから、自分で届けを出しました。
父方の実家は、山梨で600年近くになる曹洞宗の古刹。従兄の息子が跡を取っているので、彼にお経を上げて欲しいとお願いしました。知らない人よりも遙かに良いよね。
聞けば、名前を決めれば、ちゃんと戒名がつくのだとか。戒名を付けて、横浜にあるお墓に埋葬することを決めました。

土曜日の妻の退院にあわせて帰宅した息子は、リビングの陽当たりの良い特等席に安置されました。
家族全員から贈られた13本の赤いバラとかわいらしい花と、おもちゃやおくるみに包まれて、棺の中は一杯でした。
かわいらしい絵の描かれた棺を見て、娘が「弟くんがいるの?」と何気なく発する言葉に涙するパパとママ。娘と息子が、庭をパタパタと走り回る日を夢見ていたんだけれどね。
その夜は棺を2階寝室のベビーベッドに連れて行き、家族4人で眠りました。

2月最初の日曜日。火葬場に向かおうと家を出たら、車のラジオから「涙そうそう」が流れてきました。何でこのタイミングでこの歌なんだ? 思わず涙があふれて困りました。
火葬場で娘が大泣きすることは無く、僕らも泣き崩れることはなく、静かな時間が流れたあとに呼ばれてみると、足の長い骨々と少しの肋骨が残っていました。かなり大きめな骨壺に静かに納められた骨は、確かに彼が生きた証でした。

今彼は、昼はリビング、夜は寝室、とパパやママに抱っこされて移動しています。
いつも誰かがそばにいる。だから寂しくないよね。
いつかまた会える日を信じて、それまでどうかお姉ちゃんを見守ってね。
君を守ってあげられなかったパパは、今一生懸命、君に贈る最後の贈り物、名前を考えています。

posted by GO at 13:44 | Comment(4) | TrackBack(0) | 雑文