2011年12月29日

希望という名の光

今年も冬入り口の仙台に降り立ちました。
毎年12月29日に行われる電子カルテの会議(兼忘年会?)出席のためです。
成田−仙台のANA便(IBEX 運航)が復活し、いつもと同じようにこの飛行機で飛びました。
降り立った仙台空港は、津波で甚大な被害を受けたみじんも見せず、年末の旅行客でごった返していました。
しかし機内から見下ろした海岸線は、本当に何もなくて、津波でなぎ倒された防風林が無残な姿を残していました。

空港ロビーには「トモダチ・オペレーション」の写真展があり、1階・2階その全てを拝見しました。
空港に押し寄せる津波、土砂とがれきに埋まった空港や街並み、懸命に作業する人々の姿、一緒に働く多くのアメリカ軍兵士や自衛隊員達。テレビで何度となく目にした光景でしたが、改めて写真を眺めていると、想像を絶する惨状に息をのみました。
その写真たちの中にあった、アメリカ軍兵士に肩車をされる子どもの屈託のない笑顔と、そっと黒人兵士の手のひらにタッチをする小さな子どもの姿を見たとき、涙が出ました。

3月11日14時46分。
あの日僕は、千葉や茨城各地から集まった多くの保護者達に、不活化ポリオワクチンの説明をしていました。
あ、地震だ、と気づいた直後から揺れは大きく、会議室入り口のドアにつかまって立っているのがやっと。何人かの人は会議室を出て、そのまま病院の外に走り出していました。
窓から見える駐車場の車は、異様なほど揺れていて、地震の大きさを実感させられました。
説明会を中止してほどなく、東北地方を甚大な地震が襲ったこと、10mを超す津波の警報が発令されたことが事務局から伝えられ、災害拠点病院に指定されている病院は、災害時緊急体勢に入りました。
電気が止まり、自家発電で得るわずかな電力の中、救急外来のパソコンからは、津波に襲われる街の映像が流れてきました。
幸いにして自宅も家族も無事でしたが、病院周辺は液状化が起き、橋が落ちたり道路が陥没したりで大騒ぎでした。
運び込まれる患者さんが一息ついた18時半過ぎ、同僚達の勧めもあり小さな子どもの待つ我が家へと帰路につきましたが、通行止めの東関東道を避けて渋滞している一般道からさらに裏道へ抜けて、普段45分の道のりを5時間かけて帰宅しました。
週末病院からの応援要請はなく、家族とともに過ごせましたが、電気・ガス・水道の止まった病院は、大変な週末を過ごしたようです。

停電を免れた我が家でテレビを見ながら、福島・仙台の友人達を心配したのですが、津波が自宅の100m手前まで押し寄せた友人を含め、後日全員の無事が確認されて安堵したものです。
小児科学会、小児アレルギー学会は急ぎ支援に乗り出しましたし、病院スタッフもDMATを含め被災地入りしていましたが、医師が1人しかいない小児科を守るのがやっとの僕は、後方支援しかできない歯がゆさを感じたものです。

空港から市内に向かう仙台空港アクセス線の窓からは、仮設住宅群が見えました。
市内は地震の陰などみじんも見せない賑わいでしたが、この瞬間にも先の見えない不安の中に置かれた人々がいることを再確認しました。

頑張っている人たちに、これ以上頑張れ、という言葉を投げかけることはできません。
しかし底知れぬ闇の中からも、かすかな光のきざしが見えることを祈ります。
あなたたちを照らし続ける、希望という名の光が見えることを祈ります。

今年も残りわずか。
皆さんにとって、来年が素敵な年でありますように。
今年も温かい友情を、ありがとうございました。

posted by GO at 14:53 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文