2019年01月30日

思い出のアルバム

地下室で捜し物をしていたら、古いアルバムが出てきました。
まだ大学生だった僕が、アルバムの中で笑っていました。あ〜〜そうだ、こんなことがあったな、とその当時のことが鮮やかに思い返されました。
そういえば結婚式の披露宴で、2人のプロフィールを動画で流したのですが、そこで使うためにこどもの頃の写真を探したことがあります。
僕や妹のこどもの頃の写真は、きちんとアルバムに収められていて、父親のコメントが所々に添えられていました。収めきれなかった写真とともに、大切に木の箱に保管されていました。

最近の写真はデジカメが普通で、パソコンの中に保存されているけれど、アルバムにはなっていないことが少なくありません。
そういえば僕ら家族の写真も、娘の成長の節目では写真館で撮影するものの、普段撮りの写真をプリントアウトしてアルバムに貼る、という作業はしていませんでした。
「アルバム」はその中に時の流れが収められていて、写真を見て思い出がよみがえったり、覚えていなかったり、自分の知らない幼い頃の自分がいたり、自分が存在しない時代があったり、それが次々に情景として目の前に現れる。セピア色の白黒写真から、少し色あせてしまったカラー写真まで、時代の変遷と時の流れが、ページを繰るたびに浮かび上がってきます。
その「振り返る」という作業のために、もしかしたらアルバムはとても大切なものなのかもしれません。

娘が保育園時代に英語で覚えた歌の1つに、Greg Irwin さんが英訳した "Remember the days" があります。
とても素敵な詞だったので、インターネットで検索をして、CD を手に入れました。

If you can remember it
Try to think of the times we had
That day was when?
What happened then?
Remember the days

そうですね。アルバムを見ながら、あんなことがあった、これはいつだっけ、と話が弾むなら素敵です。

僕ら家族には、一緒に時を刻みながら、写真には残せない大切な家族がいます。
折々の家族の写真をみながら、その背景に、成長していく息子を一緒に見ています。
先日も、あぁそうか、もうそんな歳になるのか、と思い至って、胸がいっぱいになりました。

一年じゅうを 思いだしてごらん
あんなことこんなこと あったでしょう
桃のお花も きれいに咲いて
もうすぐみんなは 一年生

小さなランドセル、探さなくちゃね。


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2017年01月30日

君を飾る花を咲かそう

「わたしにも弟がいるって言ったら、うそだね〜 って言われた」
帰宅したら、娘が不服そうに訴えてきました。
僕が抱えている花束を見て、「きれいだね〜 かわいいね〜」と言いながら、花瓶に生ける準備を始めました。
「わたしの花束もあるんだ」と、昨日寄ったダイソーでパパにねだった花束を、そっと添えていました。
そういえば何日か前、「わたしの家族はね〜」と何かの話でそんな話題になって、「パパでしょ、ママでしょ、グランマに弟くん。」さらっと息子の名前を口にしていました。
娘の会話に、時々息子の名前が登場します。
彼女の中に、間違いなく息子が生きていることに胸が熱くなります。

娘を抱きしめるとき、娘の手を握りしめるとき、心の中でいつも息子も一緒に抱きしめ、手を握りしめています。
4歳になった息子を想像するのは難しいけれど、きっと彼ならこんな反応をするんじゃないか、こんなことを言うんじゃないか、そんなことを想像しながら「君もおいで」と呼びかけています。

息子を授かったとき、2人を平等に愛せるのだろうか。Twitter にそんなことを書き込んだら、「大丈夫、愛情は2つに分けるのではなく、2倍になるんだ」と教わりました。
確かに、息子への想いは娘への想いと遜色はなくて、愛情は2倍になっています。

以前に書いたような気もするのですが、庭の芝生の上を、とてとてとて〜 と走る息子を娘が追いかけている。それは息子を授かったときに思い描いた願いで、そしてとうとうかなわなくなった夢でありました。
モグラで荒れた庭をきれいにしよう、と芝生をはがして、代わりの芝の種を購入してみたものの、そこを走る息子がいない、という事実がどうにもやりきれなくて、そのまま放置して1年以上経ちました。
妻は何となく庭の立木と花壇もどきに手を加えましたが、僕がやる気がないためか、やはり何となくそのまま放置。庭には花壇に使ったレンガが散乱し、芝生用の砂・養生土が積まれたままです。

君を飾る花を咲かそう
心を込めて育ててゆくよ
数え切れない やさしい想い出を
包み込むほどの甘い香りに
見送られてゆけるように

君を飾る花を咲かそう
心を込めて育ててゆくよ
旅立つ君へ僕が出来ること
何もないけれど強く生きるよ
優しい君が 躊躇わずに ゆけるように…

もう少し暖かくなったら、久しぶりに庭に手を加えたいと思います。
もし妻が花壇も整えられたら、息子を想って花を植えたいと思います。
いつまでもともに生き続ける。その想いで名付けた息子は、その名前の通り、家族の中で生き続けています。

4歳の誕生日に。
涙と笑顔と切なさと愛しさとともに。
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2016年03月31日

退職の日

なんだかバタバタしている毎日ですが、気がつけば3月は今日で終わり。
午後の院内は、退職や異動で職場を離れる方々が、花束を手に挨拶回りをされていました。
その何となく華やかで、何となく寂しい光景の中に、チームで一緒に仕事をしていた検査科長や2人の看護副局長、夜尿症の子供達がお世話になった泌尿器科部長がいらっしゃいました。この春で無事に定年を迎えられました。

定年。
最近、たまに「残りの年数」を数えることがあります。
当地の医療職公務員は65歳定年ですが、なにせ子供は46歳で授かりましたから、普通に進めば彼女が大学に入ったあたりで定年になります。再雇用が可能なことが多く、それであと5年、70歳まで。
前職では60歳定年でしたから、それでは中学生で定年を迎えてしまいます。転職をした理由の1つは、ここにありました。
それでも、もし彼女が浪人したり、6年制や大学院などに進学して6年以上学生をするのなら、ぎりぎりかちょっと足りない。
親としては、なかなか悩ましいところです。
開業して10年になる先輩が、「私のクリニック、継承したら?」と声をかけてくださっていますが、割と真剣に考えてしまいます(でも、何歳で継承することになるんでしょう?)。今から独力開業は、公務員の身分保障や収入と開業後のそれとを天秤にかけると、ちょっと微妙。

父親とは、大人の事情というヤツで、中学から離れて暮らしていました。
彼は株式会社とは呼びにくい小さな事務所を運営していましたが、いつのまにか会社を離れフリーで仕事をし、さらにいつの間にかその仕事もリタイアしていました。
彼の中に「定年」はあったのか。とうとう最後まで、そんな話はできずに終わりました。
妻の父も自営の公認会計士で、齢70を超えましたが、まだのんびり仕事をされていますので、やはり「定年」にはなっていないような気がします。

好きな仕事があれば、やれる仕事があれば、気力があれば、無理をしない範囲で生涯現役、というのも素敵ですが、宮仕えであればどこかで一度区切りを付ける必要があります。
幸か不幸か僕はそれを身近に見てこなかったのですが、区切りを付ける、というのはどんな心持ちなのでしょうか。
惜しまれる退職ならば光栄なことですが、もしかしたら職場からは新陳代謝を促され、「やっと」とか言われてしまうのかもしれない。次の世代にバトンをうまく渡せていれば良いのですが、それで自分の存在が不要になってしまうと感じるのは、とても受け入れられないかもしれない。
自分のアイデンティティというものを考えると、仕事をして社会とつながっている人には、やはり仕事の上で必要とされる、ということがとても大きいのかもしれません。

いつもと違って彼の帰りを待ち受けて
玄関先でありがとうと言った
長い間ご苦労様とあらたまって手をついた

この「退職の日」を聴くたび、このフレーズで胸が熱くなります。
それが芝居染みた仕草であったとしても、家族にそう感謝をされるのなら、それはとても大きな心の支えになる。
自分の満足のために働いているところはあるにせよ、家族を守るために働いている部分もどこかにあるのなら、それを分かってもらえる幸せは、やはり自分のアイデンティティにつながります。
そして何より、無事にその日を迎えられるという幸せ。

公園のD-51(デゴイチ)は
愛する子供達の
胸の中でいつでも力強く
山道をかけ登っている
白い煙を吐いて力強く
いつまでもいつまでも

同僚達が、父親とこんな話をした、先輩医師としてこんなことを教わった、そんな話を嬉しそうにしている輪の中にいて感じた寂しさは、どこにでもあるお話の1つ。世の中には、坂道を力強く駆け上っていく蒸気機関車を知らない、もっともっと悲しくて寂しい人たちもたくさんいるわけですしね。
でも、みんなそれを乗り越えていかなくてはならないわけです。
そして、そうやって自分が坂道を駆け上って、もしこの先父親として、子供に大きいと感じてもらえる背中を見せられるのなら、それはとても幸せなことです。
そんな日を迎えられるように、足下の日々を精一杯に・・・
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2016年01月22日

旧友再会フォーエバーヤング

「お〜〜 久しぶり。学生の頃と全然変わらないな〜っ!」
出席番号が1つ前の友人が、受付で笑っていました。すっかりごま塩の頭なのに、顔は昔のままの童顔で、なんだか不思議な雰囲気を醸し出している友人の横に、これもまた昔のままの友人達が何人か。みんな変わらないねぇ。
受付横のロビーでは、スーツ姿の友人達が思い思いに談笑していました。
え〜? 同期会なのに、みんなスーツかよ(^^;) と焦ったら、同期会実行委員長の友人が、「GOだってネクタイしてるじゃん」と笑っていました。いや、ネクタイの上はふつーにセーターで、とってもカジュアルなんですが。
ロビーを回って友人達に声をかけている彼が着ていたのは、稲葉篤紀のTシャツ。北海道日本ハムファイターズの選手でした? あ、背番号が出席番号と同じなのか(笑)。

卒業して25年。
みんな50を超えて、そういえば卒業して一度も同期会をしていなかったね、と、細々とつながっていたメーリングリストで話題になって1年。ようやくその日を迎えました。
連絡が付かない友人が何人か。連絡は取れてもどうしてもこられない友人が何人か。残り、何とか会場にたどり着いた同期は、遠くは九州・アメリカから、卒業生の半分以上、60余名にのぼりました。

地元に残っている人たちは時々交流があるようですが、広い北海道に散っていればなかなか会えないようで、さらに内地(本州)に戻った人たちに至っては、たまに学会で会えればそれが話題になるほど。かつて「つるんで遊んだ」思いは変わらなくても、日常の中にどうしてもつながりが薄くなっていました。

「久しぶり!」の応酬の中、最初に始まったのは「同期生による学術集会」。
同期会で学術集会があるのも不思議ですが、これがあると出張扱いになる人がいるそうで、実行委員会の尽力で3題の演題が提出されました。
トップバッターは、北海道東端の病院で皮膚科をしている同期生。最近梅毒だのHIVだの多くてね〜 となかなか無い写真を見せてくれました。
2番手は市内の有名病院脳外科部長。神の手の後継者ですが、脳神経外科医療発展途上国の現状、と言いながら、実際は日本も発展途上国なのではないか、と思わせてくれました。脳梗塞の治療のファーストラインは rt-PA(血栓溶解療法)だけれど、あまり効かないから、決められた時間を待たずにカテーテルによる血栓除去療法を受けた方が良いよ〜 という身につまされる裏話が一同の胸に刺さりました。持つべきものは信頼できる脳外科医、だそうですが、彼の病院はウチからはかなり遠い(涙)。
トリはカリフォルニア大学デイヴィス校で小児科准教授をしている子。学生時代から不思議な雰囲気の子でしたが、学生の頃と全く変わらない姿形に、一同少なからぬ衝撃を受けながら、彼女が通ってきた道の大変さと、今のがんばりに胸を打たれました。小児血液腫瘍科医として、おそらくさらに飛躍していくのだと思わせてくれました。演題開始時のアイスブレイクなど、さすが英語圏でスピーチ慣れしている医者だな、とこれも感心。
どの演題も、専門外の我々にとって面白い内容で、和気藹々と勉強できた学術集会でしたが、気付いてみたらみんなそんなレベルの仕事をこなす年齢になっていたのですね。確かに医者としては、指導する側にいる年齢ですものね。

その後の同期会は、もう盛り上がる盛り上がる。
みんなが各地から持ち寄った日本酒だのワインだのウィスキーだのの山が、瞬く間に減っていきます。ホテルのソムリエが、「このお酒はめったに店頭に出なくて入手困難なんですよ〜」というお酒も何本もあって、酒好きの友人達がそのあたりでたむろっていました。
1人1分の現況報告スピーチは、学術集会が延びて、参加者も多くて、1人50秒になりましたが、それでも終わるまで1時間以上かかる。駆け足の一言コメントに大笑いしながら時間はあっというまに過ぎました。
誰かが言っていましたが、僕ら同期は、「権力的」なものに媚びへつらうことも無く、そういうものを全く相手にすることも無く、自由に「我が道」を信じて突き進んでいる人が多い。それが気風なんだと改めて感じました。

二次会も同じホテルで開かれましたが、最後までみんなよく残って、よく飲んで、よくしゃべりました。
「何かしゃべりたいのか?」と世話役に言われてスピーチに立ちましたが、「同期っていいな〜 普段離れているからなおさらそう思うんだよね〜」という話を熱く(暑く?)語ってきました。
内地から戻ってきた友人達はみんなうなずいてましたから、やはり誰もがそう感じたのだと思います。
三次会まで行きましたが、最後はみんなヘロヘロ。でもよく笑いましたね。

50秒スピーチを聞いて驚いたのは、おそらく僕の子供が一番小さいのだろうと思っていたら、「昨年再婚して、来月子供が生まれる」という同期がいたことでした。う〜む、なかなか。
子供が大学生、というのは僕らの年齢を考えれば当たり前なのですが、結構な数の友人達が、「僕らの後輩になりました」だの、「東北大の医学生してます」だの、後を追ってくれる子供を持っていました。
そんなスピーチを聞きながら、小学生の娘を持つ仲の良い友人が、「GOって、娘を医者にしたいと思う?」と割と真顔で聞いてきました。「僕は娘のなりたいもので良いと思うんだけど・・・ ただ、僕は小児科医という仕事が好きだから、もし娘が医者になりたい、と言ったら、嬉しいと思う」と答えたら、すごく腑に落ちた顔で「そうだよな〜」とうなずいていました。きっと彼もスピーチを聞きながら色々感じるものがあったのでしょう。

本当に、心が暖まる同期会でした。
帰宅したら妻に、「本当に楽しかったのね」と微笑まれましたので、しばらくテンションが高かったのだろうと思います。
後日届いた同期会のDVDを見ながら、しみじみと同級生は良いなぁ、と思いました。
それはもしかしたら、本当に大変な時間を共有した戦友への想いであり、青春時代を過ごした土地への思慕の念であり、そんな日々と若さへの憧憬なのかもしれません。

あゝあの頃よりは少し
あゝ歳もとりましただけど
時には無邪気にはしゃいでみたいと
フォーエバーヤング

また会おうね。
みんなそれまで元気で頑張ろうね。
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2015年01月30日

涙そうそう

お手伝いに行った急病診療所で、次の患者さんを呼び込もうとして、電子カルテの画面に釘付けになりました。
息子の名前と全く同じ名前がそこにありました。読み仮名も同じ。
名字は一字違いで、でも字画は僕らと同じなので、字画で決めた名前なのでしょうか?
呼び込んでちゃんと対応ができるのかしばし逡巡した後、思い切って呼び込みマイクのボタンを押しました。
診察を終えてお父さんに、「息子の名前と同じですね〜 名前は字画を考えたんですか?」と話しかけてみました。
お父さんはとてもにこやかに、どなたかの名前を頂いたのだ、と教えて下さいました。良い名前ですよね、とお気に入りのようでした。
お父さんと患者さんが診察室を出るまで、何とか笑顔でいられました。でもやっぱり1人になったあと、切なくて胸が一杯になりました。

この前の1年は、喪失感の中にいました。悲しみを抱えながら、なんとか彼が存在した意味を見いだそうとあがいていました。
1歳の誕生日が過ぎ、この1年は、ちゃんと生を与えてあげられなかったことを、息子と妻に申し訳ない、と思うようになりました。自分のことばかりだった1年前から、相手のことを思える程度には冷静になれたようです。

娘は、相変わらずしばしば息子の名前を口にします。
きっと彼女も、心待ちにしていたんだなぁ、と感じます。
以前はそんな娘の言葉を聞くたびに心の中で泣いていたのですが、最近は少しだけ穏やかに聞き流せるようになりました。
名付けたときに願った通り、今でも家族の中で、一緒に生き続けている。それは願いであり、贖罪でもあるのですが、それではいつか許されたと思える日は来るのでしょうか。
外来で同い年の子供達を診るたび、あの子も今頃これくらいなんだなぁ、と思い続けることは、きっとこれからも続くのだろうと、それだけは確信しているのですが。

夕方息子のために花束を用意した花屋さんで、すっかり顔なじみの店主さんが、「子供なんてそのうち、花よりもオモチャが良い、とか言い出すんでしょうね」と笑っていました。
そうですね、年齢が上がればきっとそうなんでしょうが、申し訳ないことに僕は、花束以外の何を彼が欲しがるのか、分からないのです。
多分、これからもずっと。
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2015年01月22日

残春

テレビ画面の中で、今の僕よりも若い父が笑っています。
そういえば、僕や妹が幼かった頃、父は良く僕らを遊びに連れて行ってくれました。
ドライブもそうですし、西湖でのキャンプもありました。テントを借りて、そういえばあまり苦労せずに設営していたような気がします。
富士山の五合目へ行ったときは、痔の手術から間もなかったのに、僕らが希望したので馬に乗って六合目まで(?)の乗馬にもつきあってくれましたっけ。降りてから泣いてたのを思い出しました。

何度か引っ越しをしながらも、大切に持ち運んだ家族の8mmフィルム。随分前に妹が業者に頼んでビデオにダビングしてくれましたが、いまやビデオも時代遅れ。
幸いにして綺麗に修正してブルーレイに焼いてくれる業者を見つけ、他社よりも若干高いながらその品質の良さに惹かれてデジタル化をお願いしました。
届いた映像は予想以上に素晴らしく、これで音が一緒にあったらなぁ、と思うのですが、録音付きの8mm登場はもう少し後だったように思います。
再生をして飛び込んでくるのは、若い頃の両親と、幼かった頃の僕ら兄妹。懐かしい、という一言では表現できない感慨深さがありました。
家族の記録、というものは大切なんだなぁ、と改めて感じます。

若さを嗤(わら)わず
老いを恨まず
いつか 来た道
いつか 行く道

「お父様の具合が少し悪いので、今日の透析が終わった後、帰宅するにはどなたかご家族のお迎えが必要です」 桜が散って、春の名残を味わっているある日の朝、電話が鳴りました。
腎癌で片腎摘出後、結局残った腎臓の機能が落ちて、腹膜透析を経て血液透析になった父。
大人の事情、というヤツで普段は離れて暮らしているのですが、具合が悪いと聞くと心配になります。
しかしあいにくと誰もすぐに東京の病院へ行かれませんし、その後しばらく父の自宅で看護することも難しく、入院のお願いをしてみました。最初は満床だと断られていたのですが、結局ICUのベッドを空けてもらって入院となりました。
夜、消灯時間を過ぎて、とるものとりあえず母と2人、身の回りの品を持って病院を訪ねたのですが、すでに消灯時間を過ぎているから、と面会はかないませんでした。「落ち着いていますよ」という看護師の言葉に、それではまた週末にでも出直すことにしよう、と荷物だけ預けて帰ったのですが、今思えばそのとき、「顔を見るだけでも良いから」とお願いしてみれば良かった。

翌日の午前中に、主治医の先生から電話がありました。
「昨日赤羽の駅前で転んだようです。顔をぶつけています。お腹を痛がっていて、下痢がひどいのですが、詳しく検査をしてみたら、どうやら壊死性腸炎のようです・・・」 それなのに自宅へ帰そうとしたのか、と悲しくなりましたが、どうやら分かったのは入院した後の様子。きっと「帰さなくって良かった」と思っているだろうなぁ、と主治医の心情が良く分かります。
「倒れたのが原因なのか、具合が悪くなっていたから倒れたのかは、今となっては良く分かりません。ただ、かなりの広範囲がやられています・・・」 すると手術の適応は? 「ご高齢ですし、かなり広範囲なので、手術は無理だと考えています」 では、抗血栓療法は? 「すでに壊死が広がっているとすれば、それもあまり効果的では無いと思われます・・・」 つまり打つ手が無いわけですね。壊死性腸炎で打つ手がないとなると・・・ 「状況はかなり厳しいです。ここ数日、と思われます」
思わず父の顔が浮かびました。
これでも医者の末席に名を連ねていますから、現状がどのような状況なのかは良く分かります。
急ぎ妹を呼ぶことにして電話を切りました。

ハワイの妹は、さすがに急の連絡で絶句していました。今からでは明朝の飛行機の手配は難しい、と悩んでいました。それでも急いで仕事の調整をして、家族と相談して、できる限り早く飛ぶ、とのこと。でも状況は厳しいから、もしかしたら間に合わないかもしれないよ、と伝えましたので、覚悟はしたようです。

できる限り早く病院へ行こう、と午後の外来を片付けていると、再び電話が入りました。
「状況はかなり厳しいです。これから来られますか?」 予約の患者さん達がありますので、夕方にならないと難しいです。 「できる限り早くお願いいたします・・・」 危篤です。
とるものとりあえず残りの患者さんを片付けて(まさに申し訳なくも、片付ける、という心情でした)、自宅に戻ったら母がいない。
妻と2人手分けして探し、ようやく近所でのんびりしていた母を収容して、病院に向かいました。
自宅を出てまもなく、電話が入りました。電話が鳴った瞬間に、意味を理解します。
「まだ病院に着かないでしょうか? あとどの位かかりますか? 心拍が30まで落ちてきました・・・」
あと1時間半はかかります。心拍30ですか。間に合わないですね。間に合わなければ、待たなくて結構です・・・
危篤の報に家族が駆けつけるとき、希望があれば心臓マッサージをしながら到着を待つことがあります。
そうして頂けば、少なくとも死に目には間に合う。でも実際にはもうとっくに亡くなっている患者さんの死亡確認を延ばしているだけ、というのが真実です。
家族としては死に目に間に合いたい。でももう意識はないし、実際には亡くなっている父を、あと1時間半も心臓マッサージしてくれ、というのがいかに理不尽な希望なのか、これも医者ですから良く分かっています。
「待たなくて結構です」つらい言葉だなぁ、と思いました。

やっとの想いで病院にたどり着き、父に会ったとき、まだほんのり温かかったのが救いでした。
不思議と悲しい、という感情は無くて、むしろ全ての感情が消えたような、変に冷静な自分がいました。
身綺麗にしてもらうのを待つ間に、妹に電話をしました。現地で夜中にかかった電話ですから、妹も覚悟をして電話に出たようです。1日後の早朝便で発てる、と伝えてきました。

いのちを恥じず
いのちに怯えず
永い永い坂を
黙して独り行く

順番が望ましいのですから、いつか経験する親の葬儀です。
バタバタしながら、それでも葬儀社が商売柄とても親身で、暖かな家族葬ができました。
火葬後のお骨拾いで、のど仏が立派だ、といとこ達が驚いていました。
晩年は病気で苦労したけれど、足の骨は随分太くて立派ねぇ、と伯母や母が驚いていました。
静かな悲しみはありましたが、穏やかに時間が過ぎたように思います。

未来を憂えず
過去に惑わず
いつか 夢見た
いつか 届く場所へ

季節に咲く花は
時を疑わない
与えられしいのち
楽しきもまたよろし

父を亡くして半年が過ぎた頃、デジタル化された家族の8mmフィルムを見て、ようやく悲しみが襲ってきました。
あぁ、僕はやっぱり、父のことが大好きだったんだなぁ、と画面の向こうで笑う父を見て、しみじみ実感しました。諍いが無かったとは言えず、腹を立てたり恨んだりもしましたが、でもやはり、父が好きだったんだなぁ、と分かりました。
多分彼は間違い無く、少しだけ不器用でしたが、子供達を愛していた。
僕ら兄妹は、愛されて育ったんだ、と思い出しました。
ようやく一緒に酒が飲めるようになった、と行きつけのスナックで、信じられないくらい、恥ずかしいくらい喜んでいた父。会うたびに自分のことよりも僕のことばかりを心配していた父。子供の頃、日曜日の朝、両親の部屋に飛び込み父の布団に潜り込んだときの、缶ピースのにおいと布団のぬくもり。怒られたこと、笑ったこと、そうかこんなこともあった、と良くまぁ昔のことを覚えているな、と自分でも驚くくらい、父との思い出がよみがえりました。

多分、自分が父になって、娘に無条件の愛を注ぎ込んでいるから気づいた父の愛。
少し気づくのが遅かったなぁ、とそれが申し訳なく思います。

心に咲く花は
季節を惜しまない
与えられしいのち
かなしきもまたよろし

51歳の誕生日に。娘にもらった沢山の幸せを感じながら。
父さん、どうもありがとう。
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2014年03月11日

ダイエットの歌

先日のバンコクで、バスルームにある体重計に乗ったら、あろうことか体重が 70Kg になっていました。身長が 164cm ですから、立派なメタボ体型です。このところ、ご飯美味しかったもんなぁ・・・

転職してから、病院内の移動と言えば、1階医局と2階外来の往復だけ。しかもせいぜい2〜3往復。以前は4階医局から3階外来へ、2階 NICU へ、と良く移動していました。
運動不足は分かってます。通勤往復の車の中で、スクイーズで腹筋動かしたりしてますが、たかがしれています。

職員健診で、中性脂肪と尿酸とコレステロールが引っかかりました。
Nature Made の DHA(120mg) + EPA(180mg) を飲み続けて,見事に中性脂肪は改善したのですが、このままで良いわけがありません。
何気なくめくったアルクの雑誌に載っていたのは、九味半夏湯加減方(扁鵲=へんせき)。3ヶ月くらい飲めば、内臓脂肪をよく落としてくれるそうです。
生薬11種類とのことで、値段は結構高いのですが、思い切って3ヶ月試してみることにしました。

そんな折、友人の先輩小児科医の Facebook にあった「糖質制限」の4文字。ちょっと興味を持ちましたら、先輩つながりのさらに先輩小児科医から、「糖質セイゲニスト」へのお誘いを頂戴しました。

明太子あればご飯3膳いけます。納豆掛けご飯も好きです。
パンはも〜〜っと好きです。土日の朝は,いつもパンです。パスタも大好き。ピザも忘れちゃいけないよね。
病院内のセブンイレブンには、看護師さん相手か、美味しそうなシュークリームにエクレアにチョコレート入りクロワッサンなどなど。疲れた午後には止められないんですよね・・・

という、炭水化物どっぷりな生活だったことを思い知らされ、かといっていきなりスーパー糖質制限なんていう、一切炭水化物取らない、という生活にもなれず。
先輩諸氏の誘いをのらりくらりとかわしてはいたのですが、状況が変わるわけでも無し。ゆるい糖質制限をしてみようかな、と思い立ったのがこの間の誕生日でした。

まずは楽天市場から「糖質制限クロワッサン」を購入。
これが思いの外美味しくて、昼食に食べていました。
さらに他社の糖質制限パンを手に入れ、それまでのセブンイレブンお弁当生活から、糖質制限パン+サラダ+おかず1品(またはスープ1品)に替えてみました。以前より野菜を取るようになり、それはそれで良いのですが、難点は院内セブンイレブンには、お弁当以外の種類が少ないことです。飽きたら出勤前に、違うセブンイレブンでおかずを買うかな〜

そうこうしていたら、妻が「なに、その糖質制限って?」と興味を示してくれました。
彼女はダイエット不要の体型を維持していますが、それではと夕食のおかずをがんばって、糖質制限食にしてくれました。ゆるい糖質制限ですので、夕食にはお茶碗に1口のご飯を頂きます。
もともと朝食は自家製カスピ海ヨーグルトなので、これである程度の糖質制限はできそうです。

某所でたまったポイントを使って、アマゾンでパナソニックの「ホームベーカリー 1斤タイプ SD-BMS106-NW」を購入しました。「糖質オフのパスタ パン ピザ」という本を参考に、自分でも糖質制限パンを作ろうかな、と考えています。
妻は電子レンジを使って、おから+卵+ベーキングパウダー+人工甘味料で、おから蒸しパンを作ってくれています。アーモンドやクルミを砕いて混ぜたり、ココアパウダー入れたものなど、これが予想外にとても美味しくて(愛情詰まってるから? 笑)、またお腹にずっしりきます。最近はこのおから蒸しパンとセブンイレブンのおかずでお昼になっています。

で、肝心な体重ですが。
まじめに糖質制限を始めて約3週間。体重は 5Kg 減りました。妻が思わず「体の具合、悪いんじゃないの?」と焦ったくらいです。
糖質制限につきあっているわけではありませんが、妻の体重もすこ〜し減ったようです。

これなら、次の職員健診は異常値出ないかな? と淡い期待を抱いているのですが・・・


ちなみに、本日のタイトルですが、本当にこんな歌があるんです。
福岡で活躍されている楓(ふぅ) さんの「ダイエットの歌」。Youtube はこちらです。

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2014年02月06日

ふるさと

大学5年の夏休み、滞在していたホームステイ先のホストファミリーが、「何か日本の歌を歌って」とリクエストしてきました。
日本の歌・・・ どんなものがあるでしょう。庭の芝生とプールを眺めながら、「さだまさし歌っても分からないだろうし、今流行っている歌は良く知らないし、多分今更『スキヤキ』とかじゃないだろうし・・・」
逡巡したあげく、口を突いて出たのは、なぜかこの歌でした。

 兎追ひし彼の山
 小鮒釣りし彼の川
 夢は今も巡りて
 忘れ難き故郷

ホームシックにかかっていたわけではないのですが、異国の地にいて「日本」を想ったとき、それを一番的確に表現するのが、この歌でした。

 如何にいます父母
 恙無しや友がき
 雨に風につけても
 思ひ出づる故郷

「恙無し(つつがなし)」とはツツガムシに感染していない、と言う意味で、そこから病なく元気にいますか、という意味に転じたのだ、と習ったのは寄生虫学の授業でした。

 志を果たして
 いつの日にか歸らん
 山はき故郷
 水はCき故郷

仰げば尊し」で書きましたが、身を立て、名をあげ、夢をかなえる、というのは、人として生まれたならば一度は考えることなのかもしれません。故郷に錦を飾る。ふるさとはもちろんくじけた人も迎え入れてくれるのでしょうが、できれば顔を上げて帰りたい場所なのかもしれません。

歌い終わって、つたない英語で歌詞を訳して伝えたら、なんだかとても感動してくれました。
移民の国アメリカでは、自分のルーツやホームタウンにこだわる人が少なからずいますが、ホストファミリーはスペイン系アメリカ人のパパと、割と典型的なWASP系(あ、でもモルモンでしたっけ)のママでしたので、「ふるさと」というものへの想いは深かったようです。

そういえば、「世界のこんなところに日本人がっ!」的なテレビ番組で、しばしば彼の地に住む日本人が口ずさむのも、この歌でした。
「ふるさと」はやはり誰にとっても心に刻み込まれた、大切な土地なのでしょうか。

「住めば都」なわけですが、往々にして医者は、出身地とは異なる土地に根を下ろすことがあります。
まず大学が「とりあえず入れるところ(入れてくれるところ)」という基準で選ばれていたりします。
かつては卒業したら、通常はそのまま卒業大学に残りました。まれにふるさとに帰ることを画策しますが、最近の研修医制度は「ガラガラポン」とかき回されますから、必ずしも卒業大学やふるさとに戻れるわけでもありません。
大学に入局してみたら、地方の病院に飛ばされることもあります。転職して土地を変わることもあります。
いつかどこかで根付くのでしょうが、それは本来のふるさとではないことも多いですし、そこが「家族」にとっての「ふるさと」になっていくわけでもあります。

僕の場合は、学業や家族の都合もあって、横浜から平塚・旭川・千葉県某所と、長く住んだ土地が4つ。
「ふるさと」は? と尋ねられたら「横浜」と答えますが、今でも旭川に「帰る」と言ってしまいます。
平塚がふるさとに準ずる認識はありませんが、現在住んでいるこの地はどうなのでしょう。これからふるさとになり得るのか。娘にとってはこの地がふるさとであることは間違いが無いのですが。

「ふるさと納税」で、各地から色々な特産品をいただき、それを夕食で頂戴しながら、それぞれの土地に思いを巡らせるこの頃です。
きっと「ふるさと」をあとにしたひとが、「ふるさと」を想い寄付(ふるさと納税)をして、頂く特産品に胸を熱くする場面があるんだろうなぁ。そんなことを考えます。

「ふるさと納税」の特産品、下記のブログを参考にしながら、今年も続けてみたいと思います。

ふるさと納税でいただいた特産品
平成25年度分が載っています。タグで特産品や地域の検索ができて便利。

かんぴんたんずのブログ(ふるさと納税特産品)
ものすごく沢山の特産品を手に入れられていて、超高額給与所得者かと思ったら、「上限を考えず予算を決めて趣味でふるさと納税」と書かれていました。

ありがとう♪ ふるさと納税お礼の品
平成25年度分が載っています。カテゴリー別で特産品の検索ができて便利。
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2014年01月30日

愛し君へ

学生時代、大学祭で三浦綾子さんに講演をして頂きました。
「今、生をみつめて」というタイトルは、僕が付けました。
「生きる」と言うことを中心に色々なお話がありましたが、その中に、空の上で生まれる順番待ちをしている子供たちの話がありました。
どんな家に生まれ、どんな人生を送るのか、子供達が話しています。1人の子供が、生まれてすぐに死んじゃうんだ、と言うのを聞いた他の子達は、つまらない人生だねぇ、と冷笑を浴びせます。けれどその子供は、そのわずかな人生に意味があるんだ、と言って生まれていくのでした。

わずかな人生に意味がある。
若かった自分には分かりきれなかったその言葉を、この1年かみしめて暮らしました。
後悔と申し訳なさと寂しさと悲しみと。たまらない喪失感でした。
いつまでも一緒に、胸の中で生き続けるから、と付けた名前は、漢字が示すその意味と、何より音の響きが好きで、我ながら良い名前を付けたと自画自賛しています。
その名付け親の期待通り家族の中に生き続けている彼は、しばしば娘のおしゃべりに登場します。曰く、彼が笑った。曰く、彼と一緒に遊んだ。それは両親と同様、弟を心待ちにしていた娘の、願望の表れなのかもしれません。あるいは小さな子の持つ不思議な能力で、本当に彼が笑っているのが見えるのかもしれません。
娘のおしゃべりに笑って相づちを打ちながら、胸の中で静かに涙を流す、そんな繰り返しです。

職業柄日常的に子供達に接しますから、中には帝切予定日に生まれた子供なんていうのに出会うこともあります。うちの子も生まれていたらこんななんだろうな、と一瞬でも思うと、とても落ち込みます。顔で笑って心で泣いて、というのはこういうことなんだな、と思い知らされました。

愛し君よ 愛し君よ
何処にいるの
今すぐ逢いに来て欲しい
例えばそれが幻でも
いいから

病棟の薄暗い処置室で、息子を抱き上げた時のことを、よく思い出します。
そっと抱き上げて、会いたかったよ、と声をかけて、頬とおでこにキスをした。その時の息子の顔を思い出します。
彼の笑顔を見たいなぁ、と胸が熱くなることがあります。
よちよちと歩く後ろを娘が追いかける。そんな光景が目に浮かぶことがあります。
幻でもいいから逢いたい。それは大切な人をなくした人なら、きっと誰もが一度は思うことでしょう。

そんな経験をした。
慟哭、という言葉の意味を実感した。
それはとても悲しいことでしたが、ただ1つ、小児科医として、子供を亡くした親の気持ちを知った。その経験は、彼が僕にくれた大切な贈り物の1つであることは間違いがありません。
わずかな人生であっても、周りの人たちに何かを残していくのなら、確かにそれは意味のある人生なのです。

息子の1歳の誕生日に。
沢山の愛とともに。
深い感謝をこめて。
でも、やっぱり逢いたいなぁ。
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2013年12月25日

神の御子は今宵しも

小学校のクリスマス礼拝は、5年生が聖歌隊を担当します。
明かりが消された暗いグレセット講堂を、キャンドル型のライトを手に、2列に分かれて賛美歌を歌いながら入場するのですが、6年間でたった1回のこの聖歌隊の担当は、それなりに楽しみなものでした。
何度も何度も練習を重ね、いざ本番、なのですが、僕らの時は直前にインフルエンザの大流行で学校閉鎖。クリスマス礼拝も中止となったのでした。
がっかりする僕らを気の毒に思ったのか、2学期の終業式が急遽クリスマス礼拝を兼ねたのですが、保護者には何の連絡も無かったため、両親達は参加できず。大ブーイングが起きたようです。
親たちの参観はなかったものの、練習した賛美歌を歌い、聖歌隊の責を果たせたことは喜びでした。賛美歌第二編112番「来たり給え、我らの主よ」で入場を始め、確かその次が賛美歌111番「神の御子は今宵しも」でした。今でも歌えるということは、あの頃それだけ練習を重ねた、ということなのでしょう。
僕らが学んだ校舎も今はなく、あのグレセット講堂もなくなった(新しい礼拝堂になった?)ようですが、今でもクリスマス礼拝は続いていて、やはり5年生が担当しているようです。きっと今年も、聖歌隊のキャロルから始まり、おごそかに礼拝が行われたのでしょう。

バプテスト教会系の学校でしたから、個人の信仰の自由が尊重されていましたし、結局僕は今に至るまで洗礼を受けていませんが、幼稚園(は系列の別学校でしたが)と小学校をキリスト教系の学校で過ごした影響は大きそうです。
考え方、生き方に、もしかしたらひっそりとキリスト教の教えが息づいているんじゃないか、と感じることがあります。きっとこうした「刷り込み」が、キリスト教系の初等教育が果たす一つの目的なのかもしれません。

洗礼は受けていないものの教会の敷居は高くなくて、大学時代は三浦綾子さんに誘われて、よく旭川六条教会の日曜礼拝に参加しました。何度か出席したクリスマス礼拝は、とても印象深い礼拝でした。
医者になってからも、たまに近くのバプテスト教会に行きましたが、一緒に働いて仲良くなった内科の同僚が子供の頃通ったことのある教会だったようです。
現在の地に移り住んでからは、時折教会の前を通るたびに、掲示されている「今日の言葉 聖書の一節」に気を止めることはあるものの、礼拝に参加すること無く10年以上が過ぎました。
たまたま Facebook で、前述の友人がお父様と礼拝に参加した、と書き込んだのを見て、またクリスマスには "O Holy Night" が一番だ、という書き込みを見て、この歌を思い出しました。
"O Come All Ye Faithful" はケルティックウーマンが一番好きですが、Enya の神秘的な歌声も心に響きます("Adeste Fideles" はラテン語で歌っているのでしょうか)。

残念ながら(?)千葉県にキリスト教系の小学校はありませんので、娘の情操教育にキリスト教の教えが入ることは少なそうです。
それでも、せめて「クリスマス」の意味ぐらい知っておくのが良いだろう、と思います。小学校に入ったら、教会のこどもクリスマス礼拝に参加しようか、と考えてみるのでした。
posted by GO at 23:54 | Comment(2) | TrackBack(0) | 雑文