テレビ画面の中で、今の僕よりも若い父が笑っています。
そういえば、僕や妹が幼かった頃、父は良く僕らを遊びに連れて行ってくれました。
ドライブもそうですし、西湖でのキャンプもありました。テントを借りて、そういえばあまり苦労せずに設営していたような気がします。
富士山の五合目へ行ったときは、痔の手術から間もなかったのに、僕らが希望したので馬に乗って六合目まで(?)の乗馬にもつきあってくれましたっけ。降りてから泣いてたのを思い出しました。
何度か引っ越しをしながらも、大切に持ち運んだ家族の8mmフィルム。随分前に妹が業者に頼んでビデオにダビングしてくれましたが、いまやビデオも時代遅れ。
幸いにして綺麗に修正してブルーレイに焼いてくれる
業者を見つけ、他社よりも若干高いながらその品質の良さに惹かれてデジタル化をお願いしました。
届いた映像は予想以上に素晴らしく、これで音が一緒にあったらなぁ、と思うのですが、録音付きの8mm登場はもう少し後だったように思います。
再生をして飛び込んでくるのは、若い頃の両親と、幼かった頃の僕ら兄妹。懐かしい、という一言では表現できない感慨深さがありました。
家族の記録、というものは大切なんだなぁ、と改めて感じます。
若さを嗤(わら)わず
老いを恨まず
いつか 来た道
いつか 行く道
「お父様の具合が少し悪いので、今日の透析が終わった後、帰宅するにはどなたかご家族のお迎えが必要です」 桜が散って、春の名残を味わっているある日の朝、電話が鳴りました。
腎癌で片腎摘出後、結局残った腎臓の機能が落ちて、腹膜透析を経て血液透析になった父。
大人の事情、というヤツで普段は離れて暮らしているのですが、具合が悪いと聞くと心配になります。
しかしあいにくと誰もすぐに東京の病院へ行かれませんし、その後しばらく父の自宅で看護することも難しく、入院のお願いをしてみました。最初は満床だと断られていたのですが、結局ICUのベッドを空けてもらって入院となりました。
夜、消灯時間を過ぎて、とるものとりあえず母と2人、身の回りの品を持って病院を訪ねたのですが、すでに消灯時間を過ぎているから、と面会はかないませんでした。「落ち着いていますよ」という看護師の言葉に、それではまた週末にでも出直すことにしよう、と荷物だけ預けて帰ったのですが、今思えばそのとき、「顔を見るだけでも良いから」とお願いしてみれば良かった。
翌日の午前中に、主治医の先生から電話がありました。
「昨日赤羽の駅前で転んだようです。顔をぶつけています。お腹を痛がっていて、下痢がひどいのですが、詳しく検査をしてみたら、どうやら壊死性腸炎のようです・・・」 それなのに自宅へ帰そうとしたのか、と悲しくなりましたが、どうやら分かったのは入院した後の様子。きっと「帰さなくって良かった」と思っているだろうなぁ、と主治医の心情が良く分かります。
「倒れたのが原因なのか、具合が悪くなっていたから倒れたのかは、今となっては良く分かりません。ただ、かなりの広範囲がやられています・・・」 すると手術の適応は? 「ご高齢ですし、かなり広範囲なので、手術は無理だと考えています」 では、抗血栓療法は? 「すでに壊死が広がっているとすれば、それもあまり効果的では無いと思われます・・・」 つまり打つ手が無いわけですね。壊死性腸炎で打つ手がないとなると・・・ 「状況はかなり厳しいです。ここ数日、と思われます」
思わず父の顔が浮かびました。
これでも医者の末席に名を連ねていますから、現状がどのような状況なのかは良く分かります。
急ぎ妹を呼ぶことにして電話を切りました。
ハワイの妹は、さすがに急の連絡で絶句していました。今からでは明朝の飛行機の手配は難しい、と悩んでいました。それでも急いで仕事の調整をして、家族と相談して、できる限り早く飛ぶ、とのこと。でも状況は厳しいから、もしかしたら間に合わないかもしれないよ、と伝えましたので、覚悟はしたようです。
できる限り早く病院へ行こう、と午後の外来を片付けていると、再び電話が入りました。
「状況はかなり厳しいです。これから来られますか?」 予約の患者さん達がありますので、夕方にならないと難しいです。 「できる限り早くお願いいたします・・・」 危篤です。
とるものとりあえず残りの患者さんを片付けて(まさに申し訳なくも、片付ける、という心情でした)、自宅に戻ったら母がいない。
妻と2人手分けして探し、ようやく近所でのんびりしていた母を収容して、病院に向かいました。
自宅を出てまもなく、電話が入りました。電話が鳴った瞬間に、意味を理解します。
「まだ病院に着かないでしょうか? あとどの位かかりますか? 心拍が30まで落ちてきました・・・」
あと1時間半はかかります。心拍30ですか。間に合わないですね。間に合わなければ、待たなくて結構です・・・
危篤の報に家族が駆けつけるとき、希望があれば心臓マッサージをしながら到着を待つことがあります。
そうして頂けば、少なくとも死に目には間に合う。でも実際にはもうとっくに亡くなっている患者さんの死亡確認を延ばしているだけ、というのが真実です。
家族としては死に目に間に合いたい。でももう意識はないし、実際には亡くなっている父を、あと1時間半も心臓マッサージしてくれ、というのがいかに理不尽な希望なのか、これも医者ですから良く分かっています。
「待たなくて結構です」つらい言葉だなぁ、と思いました。
やっとの想いで病院にたどり着き、父に会ったとき、まだほんのり温かかったのが救いでした。
不思議と悲しい、という感情は無くて、むしろ全ての感情が消えたような、変に冷静な自分がいました。
身綺麗にしてもらうのを待つ間に、妹に電話をしました。現地で夜中にかかった電話ですから、妹も覚悟をして電話に出たようです。1日後の早朝便で発てる、と伝えてきました。
いのちを恥じず
いのちに怯えず
永い永い坂を
黙して独り行く
順番が望ましいのですから、いつか経験する親の葬儀です。
バタバタしながら、それでも葬儀社が商売柄とても親身で、暖かな家族葬ができました。
火葬後のお骨拾いで、のど仏が立派だ、といとこ達が驚いていました。
晩年は病気で苦労したけれど、足の骨は随分太くて立派ねぇ、と伯母や母が驚いていました。
静かな悲しみはありましたが、穏やかに時間が過ぎたように思います。
未来を憂えず
過去に惑わず
いつか 夢見た
いつか 届く場所へ
季節に咲く花は
時を疑わない
与えられしいのち
楽しきもまたよろし
父を亡くして半年が過ぎた頃、デジタル化された家族の8mmフィルムを見て、ようやく悲しみが襲ってきました。
あぁ、僕はやっぱり、父のことが大好きだったんだなぁ、と画面の向こうで笑う父を見て、しみじみ実感しました。諍いが無かったとは言えず、腹を立てたり恨んだりもしましたが、でもやはり、父が好きだったんだなぁ、と分かりました。
多分彼は間違い無く、少しだけ不器用でしたが、子供達を愛していた。
僕ら兄妹は、愛されて育ったんだ、と思い出しました。
ようやく一緒に酒が飲めるようになった、と行きつけのスナックで、信じられないくらい、恥ずかしいくらい喜んでいた父。会うたびに自分のことよりも僕のことばかりを心配していた父。子供の頃、日曜日の朝、両親の部屋に飛び込み父の布団に潜り込んだときの、缶ピースのにおいと布団のぬくもり。怒られたこと、笑ったこと、そうかこんなこともあった、と良くまぁ昔のことを覚えているな、と自分でも驚くくらい、父との思い出がよみがえりました。
多分、自分が父になって、娘に無条件の愛を注ぎ込んでいるから気づいた父の愛。
少し気づくのが遅かったなぁ、とそれが申し訳なく思います。
心に咲く花は
季節を惜しまない
与えられしいのち
かなしきもまたよろし
51歳の誕生日に。娘にもらった沢山の幸せを感じながら。
父さん、どうもありがとう。